言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

Tさんの謄写版

 

Tさんの会社に行ってきた。
明日の葬儀には行かないことに決めた。
朝まで眠らず、自分なりの、お別れをした。

経理部長に欠礼を侘びる。
部長は「T社長、最後にお話しできたこと、すごく歓んでいました」
といった。

Tさんが座っていた机を、ちらっと見る。
いつも机の両端に、50センチほどの高さで
積み上げられていた本も、きれいに片づけられていた。
主人を失った机は、そうかといってただのモノには見えず、
主人の帰りを信じてじっと待つ、忠犬のようなしおらしさで、そこにあった。


会社の玄関には、Tさんが印刷会社創業時に使った謄写版が、
ガラス箱に入れて飾ってある。

「1秒に2枚も3枚も刷ったもんだ」
「両腕のバランスが大事なんだよな」

そういって胸を張った表情は、
経営者の顔ではなく、職人の顔だった。


「子どもはいくつになった。早いな。頑張ったなあ」


「生活だぞ、生活。家族を食わせるのが、いちばん難しいんだ」


「苦しくなったときだけ頼ってくる奴らの何と多いこと。経営がちょっと立ち直ると、さっそくほかの安い印刷屋を顎で使ってる。あんな人間になっちゃだめだぞ」


「入金、一度も遅れたことがないな。いつ『払えません』って泣きついてくるかと思ってた。苦しいときは、遠慮するな」

「誰も知らん土地に来て、活字で食ってくなんて。腹座ってるな、おまえ」

「そこにある本、みんな持ってけ。この土地のこと、もっと勉強しろ。誰にも負けないくらいにな。金? おまえからもらうくらい、俺はせこい人間じゃねえぞ」

「ケンカしちゃあだめだ。人の怒った顔って、つまらないんだ。『はい、すみません』といっとくくらいでいい。ケンカは、もっと大きな相手とするもんだ」

「いっぱい借金背負っちまった。知ってるか。この社屋は『シャッキンコンクリート製』になった。あっはは」

「こんな時代になるなんて、思っちゃいなかった。どんな仕事でも回してくれ。おまえの仕事は、日本のどの印刷屋より安くやってやる」

 

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会うたび、こんな言葉をかけてもらった。

「申し訳なかったなあ。最初におまえにやった仕事が2万円か。ほんとにすまなかった。許してくれよなあ」


これが、病室で交わした最後の言葉だった。
すっかり小さくなった白い顔をこちらに向け、のぞき込むようにして
しばしの間、私の顔を見つめた。

 

この見舞いの翌日、一枚のハガキを受け取った。
「きのうは、お見舞いありがとう。必ずよくなって、もう一度、仕事に励みたいと思います」

Tさんの字ではなかった。


会社の事務室を出て玄関に向かった。

周囲に誰もいないことを確認し、ガラスに収まった古い謄写版に向かって、2度も3度も4度も5度も、頭を下げた。