言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

安宿とchicken

繁華な場所から少しはずれて歩いているうちに
道に迷ってしまったようだ。
昼には滴るような原色を湛えて見えた路傍の花々が、
傾いた日を浴びて、
一様にセピア色に見えている。
石畳の坂道は、魚類の腐ったような匂いがした。

「ホテルなら、そこを曲がったところにある」

すれ違いざま、目つきの悪い初老の男が
訛の強い英語で、つぶやくようにそういった。
振り向くと、
すぐに塀の角を曲がって、見えなくなっていた。

ホテルを探してはいた。
その前に腹に何か入れておきたかった。


赤道直下の炎熱は、
汗一滴の成分まで吸い尽くしていく。

男のいう通り、
その場から数分も進まぬうちに
2階建てのホテルの看板が目に入った。
気に入った部屋があったら、
荷物を置いてから屋台の飯屋を探しても遅くはない。

入り口を入ってすぐのところに、フロント。
奥に続く廊下を覆う闇に、女が動く気配があった。


豊満な肉体が
部屋のあちこちでうごめいているのが、
安っぽい香水と入り混じった汗の匂いでわかった。

引き返そうとしたそのときだった。
「帰るのか」
覚えのある声に止められた。
さっきすれ違ったばかりの男が、背中の闇に立っていた。

「1泊いくらですか」
「15ドル」
「10ドルなら…」
「13ドル」
「11ドル…」
「OK。じゃあ、部屋を見てこい」

男は冷たい表情を変えぬまま
傷だらけの木製カウンターに、古びた金属のキーを放り投げた。
小さく「105」と彫ってある。
暗い廊下を進み、105のドアを開けた。

湿った空気をすべて吸い尽くしたかのような
うす汚れたベッドカバーの真っ赤な花の柄が、
淡い闇のなかで
ふわっと浮いて見えた。
終わってあまり時をへていない、男女の残香がそこにあった。

「夜は少々うるさいかもしれない」


いつの間にか、真うしろに、男が立っていた。
上の階から、かすかに女たちの嬌声が響いてくる。


「一晩中、出入りがある。そういう宿だ」
「別の宿にしたほうがよさそうだ」
「あんたが、そう望むなら」
「そう望むことにする」

出口に向かう途中に階段が見えた。
2階から酒に酔った女が裸足のまま、よろけながら降りてきた。
胸を大きく開けた真っ赤な衣装と脂ぎった黒く長い髪。
香水に混じったアルコール臭が
女の皮膚の内から滲み出た湿度に絡まり、その場に放たれた。

「chicken」

目が合った瞬間、そう聞こえた気がした。

ホテルを出て、繁華な通りを目指して
同じ道を戻る。


その夜泊まるホテルの条件は「エレベーターのあるホテル」と、決めた。
安宿はうんざり、と一人でつぶやいた。
マラッカ海峡に面した小さな町の、ある日の出来事。