言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

巡礼

紙にペンで書く。

当たり前のことだが、

この30年、

仕事以外では滅多にしてこなかった。

最近は意識して、

手書きをする機会を増やしている。

 

予定はA4コピー用紙を半分にしたヤレ紙にメモ。

テレビや読書で気になったことも

ヤレ紙にメモし、後日、

3号のノート(148×210)にペンで書き写す。

 

メモ帳は一度も、持ったことがない。

カバンには大学ノートのみ。

自分の字では、メモ帳は10字くらいで

ページが埋まってしまう。

無駄でしかない。

 

字が大きくて下手。

娘の小学校時代は、連絡帳にほんの数行書くだけで、

担任の先生から「ここも、ここも、読めませんでした」

と赤字と赤線いっぱいの返信ばかりだった。

娘は、とうさん、もう書かないで、と半泣きで訴えた。

 

校正、印刷の現場では「ここ、直っていない」と

オペレーターにゲラを突っ返すたび、

「誰が見ても『と』です。『て』になんか見えません」

といったあんばいで、叱られてばかり。

 

この町に来て最初に

仕事をもらった会社に届けた原稿は

三回も清書をして持参した。

 

が、

原稿用紙を開いた途端、やさしそうに見えた担当者に

「舐めてんのか」と怒鳴られた。

そこでの仕事は、それが最初で最後。

ワープロもパソコンも使えなかった時代のことである。

 

みんな自分の字が原因だった。

 

録音機材は、使ったことがない。

(正確には一度だけ使った。

撮影優先の現場で、メモをとる時間がなかった)

 

どんな話でも、大学ノートにメモをとってきた。

全部の文言ではない。

キーワードだけを瞬時に判断し抜き書きをする。

数十年にわたるこの仕事の習性が

読んでもらうための文字ではなく、

記録の手段としての記号と化していった。

 

だから、字がへたなのだ。

自分にしか読めない字なのだ。

 

巡礼にも似たこの過程は、

きっと、誰にもわかってもらえない。