言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

三勿三行、三毒。

〇日

トラブル続きだった北海道の出張から帰り、ここ数日は脇目もふらず、目の前のことに集中する。

脇目もふらず、には理由があった。このところ、過ぎ去ったこと、これからのことを考えてしまうと手が止まってしまい、途端、マイナスな想念に支配されてしまう自分がいる。相変わらず、深夜に眼が覚めてしまう。

あのときはこうすればよかった、これからいったいどうなるんだろう─と考えるときりがなく、ああダメダメ…とそうした思いを振り払う。ジグソーパズルを埋めていくように1つひとつの物事を片づけていく。そうすると、いつの間にか、仕事も雑用も消化され、かたちになっている(こともある)。

 

怒ったり、恨んだり、怖れたり、悲しんだりすると、脳内にノルアドレナリンといわれる猛毒が発生するのだという。

この毒は、毒蛇の毒にも匹敵するほど強力で、メンタル面のみならず、身体面にも大きな影響を及ぼすのだそうだ。

反対に、うれしい気持ちになったり、歓んだり、ものごとに感謝したりするとβ−エンドルフィンというホルモンが脳内に発生する。これが老化を防止したり、免疫力を高めるという。

あのB型母が、ことあるごとに「ハハハ」と高笑いをし「感謝だぞ、感謝!」とアホみたいに繰り返していたのは、β−エンドルフィンが出っぱなしだったのかもしれないと思ったりもする。なんか複雑。

 

三勿三行(さんこつさんぎょう)という言葉がある。三勿とは三つのしてはいけないこと

・怒ること

・怖れること

・悲しむこと

三行とは三つの実行すべきことで、

・正直

・親切

・愉快

仏教では、妬む・怒る・愚痴るは、「三毒」とされている。

 

こんなんじで、来年食えるのかなあと怖れを抱きっぱなしの半生だった。なんでこんな仕事やってるんだろうと、さびしい気持ちになったことも数千回。でも、続けてこられたのは、どうしても嫌いになれなかったからだ。三勿・三毒にまみれながら、正直に生きていくしか、しょうがない。それが、結論。

 

 

〇日

アロマテラピーの専門家を訪ねる。エッセンシャルオイルの、ちょっとおしゃれな使い方…程度のつもりだったが、甘かった。アロマテラピーは自然科学の系統のなかにあり、フランスなどでは医療行為としても認知されている。同じ植物でも、根と幹、枝や葉で出す香りは異なり、それぞれ成分の違うエッセンシャルオイルができるのだという。

例えば、ヒノキチオール。日本のヒノキにはそれはなく、ヒノキで含まれるのは台湾ヒノキのみ。日本では青森ヒバから抽出すると知ったのも初めてであった。

森林浴で人間が快適なのはフィトンチッド成分によるものと知られているが、実はその成分、樹木が発散する防虫剤という話も興味深い。話をうかがううちに、軽い気持ちが次第に重くなって、これは一度じゃ済まないなと、また改めての訪問とさせていただいた。

 

本の匂いが好きだ。新しい本でも古い本でも、1冊ごとに匂いが異なる。インクのものなのか、紙の匂い、はたまた糊臭なのかわからないが、どんな本にも個々の匂いがあって、カラー印刷の雑誌よりも、1色刷りの新刊や単行本の方が匂いの個性が強い気がする。

 

書棚の古い本をたまに開くと、かすかな化学臭と一緒に香ってくるのは、時間の匂いである。

 

本が書かれた時代、それを買った時代、書棚に置き去りにしていた時間が折り重なって匂いのカオスとなり、活字と溶け込みながら自分のなかに浸食してくる。これは、自分だけのアロマテラピー

 

 

〇日

昨夜のこと。風呂に入り、湯船につかって天井を眺めていたら、急に以前撮ったモノクロの写真の整理を思いつく。居ても立ってもいられなくなって、身体をろくに洗いもせず、水滴をだらだらさせて階段を駆け上がり、2階の収納の奥深くにしまい込んだ写真箱を開けてみた。ポジ(スライド用フィルム 一般にカラーの印刷用にはプリントは使用しない)やモノクロプリント、べた焼きの大半が、きれいなまま箱に入れて保存してあった。

 

べた焼きとは、フィルム1本分を並べて印画紙に一括露光するプリントのことで、1枚1枚を現像、プリントする前に、事前確認用として用いる。

デジカメを使う前、よく使ったフィルムはコダックTX。会社勤めだったころは自分で現像をしたが、自営になってからは、暗室を設けるのが大変なので、写真屋さんに頼んできた。残っているべた焼きも、市内の写真屋さんで焼いてもらったものだ。

 

深夜までかかって、ルーペで一枚ずつ見ていった。驚くことに、特に海外で撮ったものは、ほとんどピンぼけはなく、1ショットごとに緊張して撮影していたことがうかがえる。

引き伸ばしたいカットに赤ペンで印をつけ、翌朝いちばん、写真屋さんに、ネガを持っていった。15年ほど前までは、週に何度もポジの現像を依頼していたが、デジタルに変わってからはご無沙汰だった。

 

「久しぶりだな」と最初に声をかけてくれたのは、おやじさんだった。奥さんは相変わらず、店の奥でプリントの整理をしている。「モノクロ、現像できるかな」と尋ねると「とっくにやめちまった」という。市内でモノクロを焼いてくれる写真屋なんてもうないよ、とのことであった。

「ちょっと見せてみな」とおやじさんがネガを手に取ってくれた。「やってやるよ」。思わず「ありがとう」と声に出したものの、儲かりもしない仕事を押し付けるようで申し訳ない気持ちになった。

 

べた焼きを見たあとのデジタル写真は、どうしても、薄っぺらに見えてしまう。光も陰も驚愕も畏れも、想像も夢も憧憬も動揺も、奥行きもない。堂々とした虚飾が裸の王様みたいに威張って見えてくる。

マウスを上下左右にほんのわずか移動させ、クリックの一つや二つで、絵が変わる仮想の絵。100年以上の歴史を重ね進化してきたフィルムに、デジタルが追い付くのはきっと100年後だろう。どんなレンズを使っても、ここのところは、いまだ満足できずにいるという撮り手は、自分だけではないはずである。

 

噓に満ちた確実性より「揺れ」がほしかった。フィルム、現像、べた焼き、プリント───という過程を経て初めてプリントに至る内省的な揺れに、ひそかな快感を得てしまう自分がいる。

 

 

若い世代のフォトグラファーの中には、フィルムで撮ったことのないという人も少なくない。写真上はフィリピンのスラムで撮影(べた焼き)。単独での撮影だったが、途中、その筋の方々に拳銃を頭に突き付けられたハプニングも、いまとなっては、笑える思い出。結局、ピンの甘いもの以外は全て(プリント キャビネに)焼いた。