漢字やひらがな、カタカナは縦書きで記されることを前提に設計された文字といわれる。しかし、このブログがそうであるように、いまや日本人の誰もが横書きでメッセージを表すことが当たり前のようになってしまった。
しかし、いまも書籍の多くはまだ縦書きで、ページを右側にめくっていく。小説や新聞、雑誌はほとんどがこの形式である。
ただ、パソコンやカメラの専門誌などは横書きで、左側にページをめくるものが増えている。図表や写真、数字、記号が多い場合は横書きのほうがレイアウトをしやすく、編集が容易だからかもしれない。
論文と同じく「。」や「、」を使わず、英語のピリオド「.」やコンマ「,」が使われることも普通になってきた。
古代中国では、縦書きしかなかった。紙のない時代、墨で書かれていたのは竹で、その竹を細長く割って作った簡が竹簡(ちくかん)。竹は空に向かって伸びる樹木なので、横書きに使うといった発想にならなかったのだろうか。
竹ではなく、木の簡で作ったものが「木簡」である。日本でも時折、遺跡から「木簡」が出土したというニュースを聞くが、数百年以上も前の文字が紙ではなく、木に墨で書かれていたからこそ残ってきたといえる。
ペンで書いた文字は数年でかすれてしまうが、墨で書いた文字は千年単位の時間に耐えていく。墨を使って誰かの悪口なんかを書くと、数百年先の人類にも読まれてしまうことになる。墨の情報には、注意が必要だ。
文字を描いた簡をバラバラにならないよう紐で編むことで「書を編む、編集」などの言葉が生まれた。編まれた簡が「一編」、編んだ書を巻いたものが「一巻」で、これらの言葉は現代でも使われる。
あらゆる分野で横書きが主流になりつつある。…つつあるのではなく、すでになってしまったといったほうが正しいが、日本人にとって横書きは縦書きに比べ、記憶されにくい――といった話を聞いたことがある。
横書きは伝達には有利な手段だが、日本人は横書きの文をアタマの中でいったん縦書きに編集し、変換しながら読んでいる、というような内容だった。
そういわれれば、デジタル時計も、数字をアタマの中でいったんアナログの針に変換し、再認識しているような気がしないでもない。だとしたら、無意識で頻繁に行われる変換作業が、とてつもない疲労を現代人にもたらしていることにならないだろうか。作詞家の阿久悠さんの言葉が、メモ帳に残っていた。
(略)そもそもなぜ縦書きがよいのか。
縦書きは一行ずつ、
うなずきながら読んでいく。
横書きだったら、
全部首を横に振って否定しながら読んでいく。
阿久悠さんは生前、ご自身の母校・明治大学の卒業式に向けて「時代おくれの新しさ」という詩を送っている。同学の阿久悠記念館には手書きの縦書き原稿が収蔵されているそうだ。
(略)
変わらなくてもいい変化
不必要な新しさ
人間を馬鹿にした進歩
それらを正確により分け
すぐに腐る種類の新しさや
単なる焦りからの変化には
「パス」
と叫んでも悪くない
横糸と縦糸。この二つの対立で、織物ができる。色と織りの工夫で「きめ」が生まれる。
文章を書く作業も、ひたすら自己の内面と活字との対立である。色の散りばめ方や織りの工夫一つで、文章にも「きめ」のようなものが生まれる。その「きめ」を表現できる人はきっと天才か、とてつもない努力を積んだ人なのだろう。
他の言語を使う人たちも、同じようなことを考えてきたに違いない。英語で「活字」は「text」であり、編んだものは「textile」、「きめ」や質感には「texture」という単語を充てている。横組みの日本語が将来、どんな「texture」を醸していくのだろうと考えると、少し楽しみでもある。