言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

道と星座。

最初に見たのが、高校の文化祭。グラウンドに張られた薄汚れたテントの中でした。その後、映画館のリバイバルで、レンタルビデオで、テレビ放映とその録画でと、何度も見た「道」。映画のことを評する資質など皆無に等しいのですが、好きな映画はと問われれば①「ニュー・シネマ・パラダイス」②「鉄道員」③「道」と上位3位がイタリア映画なのが不思議な気がします。

 

監督はフェデリコ・フェリーニ、音楽はニーノ・ロータ。ジェルソミーナ役をジュリエッタ・マシーナフェリーニの妻)、ザンパノ役はアンソニー・クインが演じています。

 

ザンパノは屈強な体をした大道芸人です。ジェルソミーナの家は貧しかったため、わずかなお金でザンパノに雇われ、道化師役でザンパノを助けながら一諸に旅をすることになります。

 

修道院に泊めてもらった夜、ジェルソミーナがザンパノに、私のことが好きかと尋ねる場面がありました。ザンパノは何も答えず、それどころかこの修道院で泥棒をしてこいと命令します。それでも、ジェルソミーナはザンパノが大好きです。でも、自分自身が役立たずな存在であるように思えて、心の中はいつも、悲しくてしかたがありません。

 

そんなジェルソミーナに、綱渡りの芸人イル・マットが語りかける場面が強く印象に残っています。

「この世の中にあるものは必ず、何かの役に立つ。例えばこの石だ。こんな小石でも何かの役に立ってる。神様はご存じなんだ。お前が生まれる時も死ぬ時も人間にはわからん。おれには小石が何の役に立つかわからん。だけど、必ず何かの役に立つ。これが無益ならすべて無益だ。空の星だって同じだ」

 

こんな感じの内容だったと思いますが、この世のどんな存在にも、必ず役割があるという言葉に、私たちも勇気づけられます。しかし、ザンパノは次第に、ジェルソミーナを持て余すようになり、ある日、野宿先で眠り込んだジェルソミーナを見捨てて、そのまま立ち去ってしまうのでした。

 

旅芸人を続けていたザンパノは、数年後、ある町の道端で聞き覚えのある曲を耳にします。誰もが知る、ニノ・ロータのあの曲です。庭先で口ずさんでいた女に尋ねると、昔、近くで、少し頭のおかしい娘がラッパで吹いていた曲だと教えられます。そして、その娘はしばらくして死んだことを知らされます。

 

その夜、酒におぼれ、闇に覆われた海辺をさまよい歩くザンパノの姿がありました。砂をかきむしり、泣き崩れる場面で物語は終わります。白黒のコントラストが生きることの光と陰、人間の弱さと強さ、人生の歓びとはかなさを映し出すかのようです。真っ暗な夜の海の場面は、白黒でしか表現し切れないといっていいほどの深い陰翳で、この物語を締めくくっています。

 

家族も友人も知人も、隣のおじさん、おばさんも、この世で知り得た人と人との間には、どんなにしても揺らがない一定の距離があり、その関係は「Constellation(星座))」に例えられます。語源はラテン語の「com(ともに)」と「stella(星)」 とされ、一つの星ではなくまわりにある星と繋がって初めて存在する集団でもあります。

 

離れていようが、近くにいようが、互いの距離は永遠に変わることはありません。それどころか引力関係もあって、仮に星座を構成する誰かが亡くなったとしても、その関係性は永続的に続くといいます。ユング心理学では、こうした「星座」のことを「布置(ふち)」と呼びました。この「布置」はまた、人に定められた「道」でもあります。

 

失って初めて気づくことがあります。いなくなったら、現われるものがあります。ザンパノは、ジェルソミーナを失って初めて「小石」の意味を知ります。私たちは、砂をかきむしり、闇のなかで泣き叫ぶザンパノの姿に、自分の傲慢さを透かして見ます。同時に、いま目の前にいる人、周囲にいる人たちと形づくる「星座」の意味を問い直し、改めて自らが歩むべき「道」を選択したり、その選択に覚悟を決めるのかもしれません。

 

 

 

 

※「道」(1954)

監督:フェデリコ・フェリーニ

キャスト:アンソニー・クインジュリエッタ・マシーナ

音楽:ニーノ・ロータ

写真はジュリエッタ・マシーナとアンソニークイン/Getty Images.

 

 

 

 

あの町、この町。

すっかり空っぽになった家のなかを眺める。母とカミさんと自分の3人ぼっち。名残惜しいというのでもなく、凝視するのでもない。荷物の片付けや発送、煩雑な役所の諸手続き、近所への挨拶などで疲れてしまい、あちこちさわってサヨナラ、という力も残っていなかった。

 

玄関が開く音がした。このへんの人たちはピンポンを押す前に、からだが半分、家のなかに入っている。
「やっぱり連れていくのかい」
小学校のときから同級生だったチイ子ちゃんのおばさんだ。
「みんな来てるよ」
何か大事なことを諦めたような静かな、沈んだ口調だった。

 

庭の前に止めたレンタカーを囲むように、近所のおじさん、おばさんたち10人ほどが、ほとんど直立不動で立っていた。みんながみんな、見慣れた顔、懐かしい顔ばかり。チイ子ちゃんのおばさんが、10時には出発すると知らせてくれたらしい。

 

炭坑の閉山が相次いだ、あの時代。町では、大人も子どもも、近所の人もそうでない人も、親戚でも他人でも、少しでもつきあいがあった人やその家族が町を出ていくときには、みんなで駅まで見送りにいった。一人の例外もなく、旅立つ家族の、これからの幸福を祈ったのである。


友だちとその家族を合わせれば、何十何百という人を見送ってきた私たちが、見送られる側になるとは思ってもみなかった。集まってくれた近所の方々は、おそらくはこの地で残された人生を全うし、母は二度とこの地を踏むことはない。そのことだけは確かなことだった。

 

家の真ん前のニザワのおばちゃんが、クシャクシャになったレジ袋を差し出した。

「喉乾いたら、みんなで飲んでいきな」
缶コーヒーやペットボトルのお茶、それにお饅頭が数個。おばちゃんは、前日から、私の顔を見るたびメソメソ泣いてばかりだった。


裏に住むヨネちゃんのおばさんは、小声でこういった。
「私の話をいつも黙って聴いてくれたのは、ダイちゃんの母さんだけだった。私の秘密、いっぱい知ってるんだ」
そうなんだあ、と笑って応えると
「聞きだしたらだめだからね」と真顔でいった。


角に住むササキのおばさんは半べそかきながら、何もいわず、観音様みたいに、ただ、まっすぐに立っていた。長い間、お世話になりました、と言葉をかけると「なんも」と一言いって、ぷいと後ろを向いて歩き出した。小さな背中が、小刻みに揺れていた。



カッコウカッコウと、拍子抜けするくらいにのん気な鳴き声が響いてきて、少し張り詰めた空気が緩んだころ、私たちはクルマに乗り込んだ。9時49分。出発の予定まで10分近くあったけれど、もう、そこにはいられなかった。

 

100メートルほど走ると、右手にヨシダのばあちゃんの姿が見えた。私たちのクルマだとわかったのか、手を振っている。クルマを止めて窓を開ける。ヨシダのばあちゃんは、両手を伸ばして後部座席の母の手をとり「元気でね、元気でね」とその手を何度も縦に横にと揺らした。母がいった。「ばあちゃんも、元気でね、ずっとね」。私たちみんなもそういって、窓を閉めた。

 

この日で、私たち家族が暮らし、父亡きあと、母が何十年も一人で守ってきた家はなくなった。ここで、私を待つ人もいない。自らの手でこの家を抹消し、この地で人生を終えようと覚悟を決めていた母を、無理やり転居させるという愚行をやらかしてしまったようだ。

 

あの日から9年が過ぎた。母は、カッコウが鳴き始めるこの季節が好きだった。里山の緑も道端のタンポポも、空から注ぐ光も、人々の瞳もみんな、ハレーションを起こしたみたいに輝いて、神さまだってうらやむような時間の流れがそこにあった。


ほんとうの別れは、死よりもずっと死に近い。何かの本に、こんな言葉があった。まだ、生き直すための力は残っている。ただ、あの町がこんなに近くなり、この町がこんなに遠い。

 

絵の具の匂い。

英語を習い始めたのは小学5年生のときからだ。母はそれまで息子の教育になど、なんの関心もなかった人だったけれど、ある日、近所のおばさんに「中学に入る前に、英語くらいやっておかないと」とかなんとか勧められ「おまえ、明日から英語に行け」と相成った。

わけのわからぬまま、それから週に一度「英語に行く」ことが始まった(ちなみに母は、病院で検査を受けると『今日は身体にコンピューターをかけてきた』と話していた)。

教室といっても塾でもなんでもなく、ふつうの公営住宅の一室である。先生は、30代なかばの女流画家だった。近所のおばさんたちに、大学時代に英語を少しはやったのだろうから、息子や娘に教えてくれないか、と無理矢理に頼まれたらしい。絵を描くだけでは生活が苦しいので仕方なく引き受けたのだと、あとになってうかがった。

四畳半の部屋が3つしかないアパートは、寝室以外は襖が開け放たれ、教室となる狭い居間のすぐ隣がアトリエになっていた。玄関を開けるとすぐに、油絵の具の香りがつんと鼻をついた。アトリエには、カンバスやら新聞紙やら、描きかけの絵や絵の具が無造作に散らばり、その無造作具合が、北に向いたの窓からの日差しに照らされ、モノクロ調の陰翳をつくっていた。

 

祖父も、叔父にあたる父の長兄、5つ下の弟も、生涯、仕事の傍らで絵を描き続けた人だった。弟の方の叔父は小さな看板屋で働きながら、50代後半で亡くなるまで、たくさんの作品を残し、一部は地元の美術館にも所蔵されている。亡くなるまでの数年間は「日展」の北海道版ともいえる「道展」の審査員も務めた。

小さな頃から、家のどこかに彼らの絵が壁に掛けられ、かすかに漂う油絵の具の香りが、遠い異国の芳香のようなものを、子どもの私に想像させた。しかし、現実には、それらの絵のほとんどが、父が彼らに貸したお金、いわば借金のかたとして預かったものだった。

 

 

アメデオ・モディリアーニ『おさげ髪の少女』 1918年頃 名古屋市美術館

 

ある日、先生のアトリエをそっとのぞいてみた。首の長い男や女の絵が数点、そこにあった。どの顔も不思議と目は静かで、何か言いたげだが、じっと言葉を飲み込んでいるように見えた。

絵の具の匂いは、静謐な大人の女の匂いでもあった。先生は化粧をしなくとも肌は蒼白く、すっと通った細い鼻筋に、大きめの赤い唇を備えたきれいな人であった。短く清潔に整えられた髪は、小柄な顔と長い首筋をさらに浮き上がらせ、大きいけれどもどこか寂しげな眼が、絵の人物と重なって見えた。

「これ、先生の顔なんですか」

「似ているかもしれないね。私はモジリアニのような絵を描きたいの」
「モジリ蟹ですか」

 

町に(もじり)という地名があって、そこに生息するカニ=モジリガニ=のことだと思い込んだのだった。そんなカニなどいるはずもなく、ましてやモジリアニなど知る由もなかった。

 

それからの5年間、せっせと教室に通い続けたが、楽しみといえば、英語を習うよりも先生がいま、どんな絵を描いているのか、アトリエをのぞいて確認すること。そして、油絵の具の匂いのなかで過ごす静かな時間だった。


赤や黄や青の絵の具で雑多に汚れたエプロン。全身から漂う表現との格闘の痕跡。じゃあ今日は…と、テキストを開くときの、諦めにも似た、沈思する横顔。そこには「これは『生活』のためなのよ」と自分に言い聞かせる現実の顔と、夢のなかに半身を置く別の顔とが複雑に交差した顔があった。


「来月、引っ越すことになりました」
最後に教室に行った日のことは、覚えてはいない。油絵の具の匂いに、週に一度、ふれることができなくなること。そのことだけが寂しかったことを覚えている。



大人になってから、一度だけ、油絵を学ぼうと意を決し、絵画教室に通ったことがあった。モジリアニみたいな大人の男、大人の女の顔を描いてみたかったが、3回通ってやめた。直感的に「この道を行けば、破綻が来る」と思ったのだ。その判断はあながち間違ってはいなかったと信じている。



絵を描き続けた祖父や叔父たちの、半ば破滅的な生涯を見続けてきた私にとって、1つの道を「生活」とは切り離さないギリギリのところで深めることの危うさに、向き合うことはできなかった。

 

その後、先生の人生が、どうなったのかは知らない。この道を行けば、全てを捨てる。大切なものを失う。そんな自分に切り替わってしまうのが、いまもなお、想像するだけで、ひたすらに怖い。

絵画教室に通うために買った油絵の具もカンバスも、収納の奥にしまったままである。再び、絵を描き始める日は、絶対に来ない。そう決めている。

 

 

質屋と腕時計。

質屋の常連だった。学生時代のことだ。仕送りだけでは毎月の生活が苦しく、時折、アルバイトで少し余計に稼いだとしても、お金はみんな、一人旅の道楽で消えていった。


食料を買うお金がなくなると、質屋に通う。質草といえば、入学のときに母からもらった腕時計、わずかな貯金とアルバイトの金を全額つぎ込んで買ったMatsuokaのギターだけだった。


腕時計を入れると1万5000円、ギターは7000円。質草の値段である。長い間、腕時計の値段は知らずにいた。

 

ある日、質屋のおじさんに尋ねると、おじさんは分厚い帳面を奥のほうから出してきて「これ、4万円の時計です」といった。ほとんど全てのモノの値段が書かれたマニュアルのようなものが、この世界にはちゃんとあることに驚いた。

 

それより驚いたのは、入学の祝いにと母親が4万円もの腕時計をプレゼントしてくれていたことだった。長方形のかたちでバンドは黒い皮という、自分には到底似合いそうにないおしゃれな腕時計だった。当時の4万円といえば、1カ月間、母が内職で働いても得るのが難しい大金である。

「これ、あんたが買ったの?」

ある日、おじさんは、いぶかしげに私の顔を覗き込んで、そう尋ねた。
「いいえ、母からもらいました」
「流さないで、必ず取りに来るんだよ」

そんな短い会話のあとで、おじさんはいつも、ペロッとなめった指で丁寧にお札を数え、大事そうにお金を手渡してくれた。


「流すんじゃないよ」
もう一度、背中でいわれると、少しみじめな気持ちになった。


流すとは、期日までに利息を付けてお金を返さないと、そのまま質屋のものになってしまう、という意味である。いまの消費者金融ヤミ金は、担保となる質草を取らない代わりに、質屋の利息と比べてはるかに高い利息求めてくる。高価な家電製品や自動車に囲まれながら消費者金融に手を出し、自己破産まで行き着いた人を何人も知っている。そうして考えると、質屋は何と良心的なのだろう。預けた質草で、借金をちゃらにしてくれるのだ。



ギターも腕時計も、結局は、流さずに済んだ。腕時計は、その後何度も旅に同伴して、壊れてしまった。ギターはいまも手元にあり、現役でいい音を奏でてくれる。

あれから、1000円以上の腕時計は買ったことがない。高級な腕時計を手にすると、ひょいっと、質屋の暖簾をくぐってしまいそうな気がしてならないからだ。

 

時計は5、6年おきに取り換えるチープカシオ。ここ数年、値上がりして、1000円(いつものホームセンターでは980円で買えた)を少し超えたようである。

 

 

活字とジョバンニ。

「銀河鉄道の夜」宮澤賢治)に出てくるジョバンニは、学校の帰り、活版印刷所で働いていた。この町で私が仕事を始めた頃にも「活版印刷」は細々とだが、まだ残っていた。

 

印刷会社には文撰・植字工という職人さんがいて、片手に鉛の活字が入った箱を持ち、原稿を見ながら、箱から文字を拾って、版にする。ほっこり膨らんだかすかな文字の浮きが、目でも手でも感じとれるこの印刷が好きだった。

 

活版が、写植に移行したのは70年代のことだ。写植とは、暗箱に印画紙をセットして文字を現像するシステムで、オペレータが手動で1文字ずつ文字を打って印画紙に印字する。版下専門の職人さんがいて、版に校正が入ると、カッターで1文字1文字切り貼りをして文字組を整える。これをもとに印刷用のフィルムを作成し(整版)、印刷するのである。

 

取材の現場から、整理・デザイン、写植、版下、校正・校閲、製本、印刷、発送に至るまで、各分野の専門の職人たちが一本の線でつながっていた。

 

その後、電子化された写植機が登場し、印刷会社はこぞって数千万円から億単位の投資をする。しかし、皮肉なことに、ほぼ並行してMacintoshを中心としたDTPシステムが登場し、それらは一気に衰退の運命をたどる。

 

紙とペンを使っていた書き手は、同じく紙にデザインの線を描き、文字組みを指定していたデザイナーさんともどもラインに組み込まれ、Macintoshを購入せざるを得ない状況に置かれた。機械音痴の私でも、この時期に購入したMacintoshDTP関連のソフト込みで200万円を超える。

 

そのMacintoshも6台の機種変更を経て、Windowsに転換してから15年近くになる。蛇足になるが、20年以上も前に使っていたMacワープロソフトの組み合わせと最新のWordを比べると、前者の使い勝手をいまも全く超えていないことに愕然とする。

 

毎日のように、オンデマンド印刷や書籍の電子化に関するDMやメールが届く。取材も撮影も編集もデザインもご自由に。完全データだけ送ってください。PDFでもWordでもOK。お宅の町の印刷会社と比べてください。ほら、安いでしょう。納品も早い。文字やデザインの変更はできません。安いし、早いんだから。紙でも電子でもささっとやります。最後まで顔を合わせることなく、ストレスなしで仕事ができます――という話である。

 

近年は、役所でも印刷会社にデータだけの納品を要求し、肝心の印刷はどこか地方の安いところに、というケースも増えている。地場産業を守るといった大命題を、自ら踏みにじるような仕事のやり口には驚くばかりだ。

 

活版がよかった、写植は写研の明朝がいい。紙の書籍は所有してこそ歓びがある。若者の「読む力」がひ弱になっている――そう語る人は少なくないが、本のよさをいちばん知っているのは、活字を打ち、編み、インクの汚れと匂いにまみれ、汗だくで機械を回してきた職人たちだ。

 

効率を優先したデジタルの「流れ」に乗れず、失意のまま写植やデザインの会社をたたんだり、職を失い、挙げ句の果ては一家離散、自ら死を選んだ人まで、そうした腕利きの職人を何人も見てきた。何の手助けもできず、自らもその「流れ」に戸惑いながら仕事を続けてきた。彼らは一人の例外もなく、活字の1字1字を、あらゆる紙を、冊子を、本を愛し、いまとなっては徒労としかいえないような「手間」をいとおしんだ人たちであった。

 

日本の出版市場は紙書籍の売上が1兆0612億円に対し、電子書籍が5351億円(23年度)。紙は前年比94%だが、電子は106.7%と堅調な伸びという。書籍の半数が電子化されるこの流れは、もう誰にも止められない。

 

流れに乗り遅れた出版者、多大な投資を続けてきた印刷業界は間違いなく、かつての活版や写植、版下の職人たちと同じように淘汰されていくだろう。その時期は、世間の想像よりもかなり早いと思われる。情報の受け手といえばいっそう、考える視座や過程を学ぶのではなく、どこがいい、あれがいい、といった結論だけを、性急に要求する。あらゆる情報はさらに、質の高さではなく、流通する速さと量だけで判断されていくのかもしれない。

 

 

ジョバンニは、学校を終えるとまっすぐ家には帰らず「町を三つ曲ってある大きな活版処」で働いていた。「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次へと拾いはじめました。(中略)ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました」。

 

そして、仕事で得た小さな銀貨1枚を握りしめ「元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋」を買って、病弱のお母さんの待つ小さな家に帰る。「お母さん。いま帰ったよ。具合悪くなかったの」と尋ねるジョバンニに、お母さんは「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼しくてね。わたしはずうっと具合がいいよ」と答える。

 

ジョバンニは、角砂糖を牛乳に入れてお母さんに飲ませたいと考えていた。お母さんは「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから」とジョバンニを思いやる。

 

活版で拾う活字とお母さんと交わす会話が同列に、紙幅から有機的な「言葉」となって立ち上がる。母子の絆の深さが伝わる場面でもある。お母さんは、ジョバンニが自分のために費やした時間の価値を誰より感じている。

 

ジョバンニはカムパネルラと一緒に、永遠とも一瞬ともいえる時間軸を、銀河鉄道に乗って旅をした。物語はこう結ばれている。「早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました」。

 

紙と電子では、情報の内容は同じでも、完成までに堆積されている手わざと時間の量が桁外れに違う。デジタルの世界に流れる時間が冷たく、薄っぺらなものに思えてくるのは歳のせいだけではないだろう。ジョバンニがその一端を担ったように、職人たちの時間や眼差しを感じ、行間から彼らの息遣いが聴こえてくるような活字が、近ごろ、めっきり少なくなった。

 

 

 

新装版「銀河鉄道の夜」  宮沢賢治 (原著) 藤城清治 (著) 講談社

藤城清治さんと安野光雅さんのお仕事は、心から尊敬できるものばかり。手元にある作品は40年前の旧版で、新装版はまだ手にしていない。判型が読みづらいとの声もあるが、旧版よりページが増えているだけお得といえる。同作品は、日本の宝でもある。賢治の世界を学ぶ入門編としても最適。

 

 

 

 

犬と人。

おつきあいのある会社に雑種の大きな犬がいた。こんにちは、といって玄関を開けると、はっはっはっと息を切らして事務所の奥から、走ってくる。


からだを脛にこすりつけながら顔をあげ、目が「撫でろ」といっている。喉元をさすり、頭を撫で、おなかをポンポンポンと叩いてあげると、来客用の椅子に飛びのり、そこですぐに眠ってしまう。

飼い主のAさんは、野良犬をつかまえ、毎晩、犬鍋にして食っているようないかつい顔の人だった。でも、顔に似合わず、ほんとうは、人も犬も大好きな人で、私もAさんのことが大好きだった。

犬は、ずっと椅子の上で眠っていたくせに、帰り際には目を覚まし、玄関先まで、はっはっはっといいながら見送りをしてくれた。振り向くとガラスのドアの向こうにきちんと座って、いつまでもこちらを向いていた。



昔、家でタロという名の雑種の犬を飼っていた。コリーの血が半端に入った鮮やかな茶色の犬で、耳と鼻のかたちの精悍さだけはコリーの面影を残し、胴体といえば、やせて毛並みもあまりよい犬ではなかった。昔のことだから、庭に粗末な小屋を設け、鎖でつないで飼っていた。

4歳のときから一緒だった。最後の3年間は横浜にいたので、正確にはずっと一緒ではなかったことになる。


タロとは兄弟のように育った。タロのそばで薪割りをし、キャッチボールをし、タロが幼い頃は、一緒に犬小屋に入って昼寝をし、毛だらけになっては、母に叱られた。

冬になると、寒さと雪で、喉元から腹にかけて毛が凍りつき、お腹のあたりに小さなつららができることもあった。それでも、庭に出ると散歩に連れて行けとせがんで吠える。寒さも雪も大好きな犬であった。

近くの公園まで連れて行き、鎖から放すと、全身雪だらけになって走り回る。粉雪だらけの真っ白な顔で、戻ってきては撫でろとせがむ。両の手で両頬を挟み、くしゃくしゃに撫でると、また雪野原を駆け回る。こうしてやると、マイナス20℃の厳寒の夜も、ぐっすりと眠るのだった。


その夜は、渋谷のアルバイト先にいた。そこに父から電話が入った。初めてのことで、なにかあったのかと不安になった。「タロ、死んだ。一応、知らせておく」と父はいった。数日前から足がふらつき、最期は父の腕のなかで息を引き取ったという。「庭を掘って埋めた」。そういって、父は少しの間絶句し、鼻水をぐすっとすすった。17年のいのちだった。


当時、実家に帰るのは、年に1度あるかないか。バスを降りて、まっすぐなゆるい坂を昇っていくと、新しい家の谷間に埋もれるようにして、古く狭い平屋の実家があった。小さな庭だが、母の手で丁寧に植えられた花や野菜は、遠くから眺めても、元気いっぱいに見えた。

タロが生きていた頃は、坂を昇り始めるとすぐに私の気配を感じ取り、ワオワオと吠えて迎えてくれた。犬小屋に近づくと、はっはっはっと抱きついて、しばらく私を離さなかった。

 


いまはタロの声もなく、家はなく、父も母もいない。いかつい顔のAさんは、ある日突然、私の事務所を訪ねてきて「俺の遺言書いてくれ」と言い残し、1カ月後に亡くなった。「世話になった人たちに感謝の言葉を遺したい」といったが、願いはかなわなかった。腎臓がんだった。Aさんの犬も、Aさんのあとを追うようにして、確か、何カ月もたたない間に死んでしまった。

 

人だって犬だって、身近にいるどんな生き物も例外なく、私を残して死ぬはずはない。長い間ずっと、そう信じきって生きてきた。だけど、何かの法則に導かれるように、あらゆるいのちが、いつか必ず未完のままに終わってしまう。

 

日々果たすべきことを誠実に果たし、平凡を厭わず生きる者の凄みが、痛く感じる年になった。

 

 

 

 

手入れと丁寧。

朝の「拭き掃除」を始めて15年ほどになる。雑巾を固くしぼって玄関の土間や仕事場の机、リビングの床などを拭く。きれい好きというわけではなく、手入れをすることで空間がきれいに見えてきて、頭の中が整理されていくのが心地よい。

 

拭き掃除を始めてから、道具の手入れも意識するようになった。クルマは9年目になる。整備工場に入れると、毎回、スタッフの方々から、手入れがいいですねとほめられる。クルマの外も車内も、汚れたらきれいにする、調子が悪くなったら整備に入れる。当たり前のことしかしていない。むやみにスピードを出さず、丁寧に運転することで燃費がよくなり、ボディーの傷みも少なくて済む。軽の四駆だが、この季節の燃費は、街中でリッター21キロを超える。自分の中では、まあ、合格点。

 

クラシックギターは1977年に購入した。弾き終えるとガーゼで全体をさっと拭き上げ、音叉でチューニングをしケースにしまう。この方法が正しいかどうかは知らない。弦は昔から、オーガスティンの青。詳しいことはわからないが、このギターとの相性がいい。ラジオやバリカン、カメラ、時計、家具(この2年で8割を処分した)など30年以上使っているものはたくさんある。丁寧に手入れしたものは長く使える、ということは統計的にも確かなようだ。

 

こんなに「タイパ」(タイムパフォーマンス=時間対効果)の悪いことに、何の意味があるのだろうと、嫌気がさすこともある。しかし、すでに身体が「型」を覚えて、おのずと、そういう動きをするようになってしまった。ほんの10分ほどで目の前がきれいになり、モノが長持ちする。タイパはよくないが、コスパはいい。

 

モノに埋もれて暮らすのはごめんだ。消費と処分を繰り返し、効率を優先しても、きっと楽しくない。朝、ゆっくりと床を拭くことで、その日の気温や水の温度を感じ、季節の移ろいを体感する。日々異なる床の堅さや匂いを感じつつ、片隅に小さな綿埃を発見して、あららと驚いたりする。ほんの少し意識をすれば、いくらでも得ることはある。

 

あのとき、あの人の話を、もう少しゆっくり聞いておけばよかったとか、きのう書いたレポートの何行目の表現は、違う言葉がよかったかも、といったことが頭に浮かんでくる。これらは雑念とは違う種類の思考だ。澄み渡った空気、高いレンズ性能でしか見えてこない風景があるように、丁寧な身体の動きと感応で思考の「解像度」が上げられる。

 

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「磨針(すりはり)峠」(小倉遊亀 おぐらゆき 滋賀県立博物館 1947)

 

 

日本画の巨匠・小倉遊亀おぐら ゆき 1895- 2000)に「磨針(すりはり)峠」という作品がある(写真上)。右に若い僧がいて、左では老婆が斧を研いでいる。若い僧は、厳しい修行に耐えかねて山を下りる途中である。

 

二人の視線が交わったときに老婆が「一本しかない針が折れたので、斧を研いで針を作っている」とつぶやく。若い僧は、その一言で己の修行の足りなさ、浅はかさを悟り、寺に戻ることを決意する。

 

老婆は観音菩薩の化身、僧は若き日の弘法大師とされる。美術館の解説にはこう書かれている。「この僧の姿には戦後の混乱期に日本画一筋に邁進する決意を固めた、作者自身の姿が投影されているとも言われています」。

 

身体を動かし、丁寧に空気や素材とふれあうことで感応が生じる。その感応とはおそらく、斧から針を作るような、強く意識された時と時の「間」、人と人の「間」の深いところからも生じるものである。従前、私たちが求めてやまなかった効率とは真逆のところにあるその「間」から、人の奥に眠る仏性が姿をあらわすこともある、と信じている。

 

 

 

小樽。

週末、小樽を歩いた。1年ぶりのことだ。今回も、天気に恵まれた。これまで10回以上訪れているが、不思議なことに、悪天候だったことはない。

 

明治から大正期、北海道における経済・文化・商業の中心地として栄え「北のウォール街」と呼ばれたこともあった。そして、小樽といえば、運河である。70年代後半、保存を訴える市民団体と行政側が対立。当時は札幌で働いていたので、埋め立て前の写真を撮っておこうと何度も足を運んだ。記録したポジフィルムは、いまも大量に保管してある。

 

あの頃は、周囲にドブの臭いが漂い、いまにも崩れそうな古い建物がひしめき合っていた。幅40mの運河の半分の埋め立てが決まり、片側3車線の道路をつくる工事が実施されたのは1984年秋のことである。

 

小樽は終戦直後、サハリンから引き揚げてきた父の家族が暮らした街でもある。1945年8月11日、ソ連樺太に侵攻し、15日の終戦後も攻撃は続いた。20日には樺太西海岸の真岡町(現ホルムスク)にソ連軍が上陸。この真岡町が、父が生まれ育った故郷であった。

 

サハリン南部(南樺太)には40万人以上の日本人が居住していたが、北海道方面への緊急疎開が行われ、10万人が島外に避難。22日には小樽などに向かう避難船3隻がソ連軍に攻撃され、約1700人が死亡した(三船殉難事件)。

 

犠牲者の大半は女性や子ども、老人だった。陸上でも2千人以上の民間人が犠牲になり、集団自決が相次いだ。真岡郵便局では、女性の電話交換手12人のうち10人が局内で自決を図り、17歳から24歳までの9人の若い女性が亡くなっている。この9人の霊を慰めるために建てられたのが、稚内にある「九人の乙女の碑」である。交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフには、彼女たちの最後の言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の文字が刻まれている。あの瞬間も、父たち家族は同じ街で同じ時間にいたことになる。

 

引き揚げ船にも容赦ない攻撃が加えられた。生後6カ月だった叔母(父の妹)のA子おばちゃんは、ソ連の狙撃兵が放った銃弾が右の眼球をかすり、失明した。重傷を負った乳飲み子を抱え、急ごしらえの引き揚げ船で函館や小樽をめざした祖父母や子どもたち(叔父や叔母たち)の不安はいかばかりだったか。

 

鉄道員だった父は家族を見送り、一人、技術者としてロシア領となった現地にとどまり仕事をつづけた。家族と再会したのは1948年の函館で、その翌年に小樽に転居している。父がなぜロシア語が堪能だったのか知ったのは、中学生になってからのことだった。

 

漁師をしながら画家としても名を馳せつつあった祖父は、家族を食べさせるために大工となり、祖母は露天商として飴を売り歩いた。家族はその後、旭川を経て、景気が上向いていた空知地方の炭鉱町にたどり着く。

 

 

古びた石造りの倉庫や黒い煙突の伸びた木造の家。山手に向かってなだらかに伸びる幾本もの坂の向こうにそびえる天狗山が、海からの風を真正面から受け止める。こうした地形が風や水、光、そして女までもきれいにするのだと、昔、この地で会った人がいっていた。

 

人が故郷に吸い寄せられるのは、死のいちばん近くにいるはずの自分を忘れさせてくれるからだ。音のない声が396 Hzのソルフェジオ周波数みたいに頭のなかにずっと流れている。清涼な潮風が脊椎を貫き「私たちの魂はここにある」と細胞の隅々にまで問いかけてくる。

 

押し寄せてくる懐かしさは温かいが、生傷みたいに湿っている。私たちはみんな、失われた存在に支えられているのだ。このことを忘れそうになる頃、小樽に呼び寄せられる、そんな気がする。

 

小樽運河。古い倉庫群はいまも博物館やショップ、カフェなどとして使われている。澄み切った空気、透明な光はレンズを通しても感じられる。
 

父の家族が暮らす前からあったはずの石造や木造の建築群。路地裏の静寂の中でふと、時間がぐにゃりと歪む瞬間がある。
 

 

 

ノスタルジックな異国情緒を感じるのは、石造りの建物が多いからだろう。多くは木骨石造(もっこつせきぞう)と呼ばれる構造で、外からは石を重ねたように見えるが、内部を見ると木材の柱や梁の骨組みがある。高い防火性と夏は涼しく冬暖かい特性から倉庫などに適し、壁材となる軟石は小樽や札幌近郊でよく採れた。※2017年に撮影した写真も掲載しています。
 
 
 
 


じゃあね。

新千歳空港からの電車を札幌で乗り換え、Aという町まではかれこれ90分。そこから、実家のあるB町まではわずか9キロだが、ここからの交通の便が極端に悪い。バス、電車ともに1時間に1本。待ち時間なしで、空港からA駅まで来ても、いつも駅で1時間ほど時間を潰すことになる。

 

A駅からバスに乗って実家近くのバス停に着くと母の顔が見えた。母が元気だったころの話である。

 

おおよそ、家に着く時間は知らせておいたので、そこから逆算して、このバスを割り出したに違いない、そう思った。しかし、前のドアからバスを降りた途端、母は後方にある乗車口からそそくさとバスに乗り込んでいった。「ちょ、ちょっと!」とバスの外から声をかけると、車内で座席についた母が、驚いた顔をしている。仕方なく、降りたバスにまた飛び乗った。

 

振り返れば、そのころから、認知症の症状が強くなっていた。本人は「なんで、帰ってきたの」と、いたって落ち着いている。車内の乗客の視線が一斉に私たちに注がれているのも気にしていない。「どこに行くの」と尋ねると「生協」という。まあいいかとあきらめて、そのまま一緒に買い物をして家に帰ってきたことがあった。

 

町は行くたびに、廃れていた。商店街のシャッターは大半が閉まっており、家の近所のゲンおじさんやノッポのかあさんの家、はじめちゃんの家も、いまはもう誰も住んでいない。

 

家に着いてすぐ、向かいのタザワさんの家に土産を届ける。母の見守りをお願いする意味でも、長らく、そうしてご挨拶をしてきたのだった。玄関のチャイムを押すと、おばさんが出てきて「また年とったねえ。ハッハッハ」と笑う。その明るさに、いつも助けられてきた。

 

炭鉱の景気のいい時代は、おじさんと2人で小さな店をやっていた。小学1年のときだった。誰も店先にいないのを見計らって、ガムを盗んで、あっけらかんと家に帰ったことがあった。テレビのCMで見た、新発売のガムがほくてたまらなかった。

 

タザワのおばちゃんは、すぐに気づいたらしく、徒歩7秒くらいで到着する私の家に来て「ダイちゃん、ガム、盗っていったでしょう」といって玄関の戸を開けた。私は上がり框にペタンと座って、ガムをクチャクチャ噛んでいた。おばさんは、そんな私の頭をゲンコで軽く叩いて「黙って盗ったら、だめなんだよ」と笑ったが、私は新発売のガムに感動してばかりいた。洋装店で働いていた母がその日はたまたま家にいた。平謝りに謝ったあげく、おばさんの目の前で、私はもう一発、とびきり痛いゲンコを喰らうことになる。

 

実家に帰った翌日は、いつもバスに乗って、母と二人でお寺に行った。我が家には墓がなく、お寺の骨堂に先祖の位牌も骨も預けている。サハリンで生まれ育った父は、北海道は自分の故郷ではないからと、最後まで墓を建てるのを躊躇った。その長男でもある私は本州にわたっている。私もまた、この地は故郷ではなく、ここに墓を建てるのを躊躇っている。

 

玄関が北西に向いた家の日陰には、4月の末まで雪が残る。周囲の新しい家に囲まれた古い平屋の家が、黒ずんだ雪の塊に溶け込むように見えるのが寂しくもあった。そんな家も、認知症の母を転居させた翌月には解体し、整地を終えた。親戚や知人たちに「思い切りがよすぎる」といわれたが、思い出は自分の胸だけに刻むと決めていた。

 

 

お寺から家に戻ると、母はいつも同じことをいった。「で、いつまでいるんだ」「明日、札幌に寄って、あさって家に戻る」「そうか」。実家に滞在するのはほとんどが2日程度。この家も、この町も、すでに私の生きる場所でないことだけは、確かなことだった。

 

 

忘れないという行為は「記憶する」という意味だけではなく「これでよかったのか」と、自らに問い続ける行為でもある。おそらく私は、これからもずっと、前を向きつつも後悔を繰り返し、揺れながら、生き場所と死に場所を探していくのではないかと思う。

実家をあとにするときはいつも、私から両の手を差し出し、母の手を握った。「じゃあね」というと今度は母が「ああ」といった。こんな短い言葉の往還で、私たちは別離を繰り返してきたのだった。

 

昨春、母の旅立ちの瞬間は、身体にふれることは許されなかった。まだ、コロナの最中だった。火葬の際に「楽しかったね、母さん」が、母にかけた最後の言葉となった。もっと気の利いたことをいいたかったが、胸がずんと重くなって、ほかの言葉は出てこなかった。

 

1年になるんだね、母さん。また、必ず、どこかのバス停で待っていてください。じゃあね――。誰にも気づかれぬよう、そうつぶやくと「ああ」という気のない返事が聞こえてくる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

子どもの言葉。

灰谷さんの本はたくさん読んで、たくさん捨てた。灰谷さんが亡くなったとき、そばに置くのがつらくなったからだ。
本を開くたびに、子どもたちの作文や詩に寄り添いながら、大人としての自分を律する姿が目に浮かぶ。
あれから何年たっただろう。いつの間にか、捨てた数を超える灰谷さんの本が棚に並んでいる。みんな買い直したのだ。
こんな詩が、いくつも散りばめられている。
 
 
「たいようのおなら」(のら書店) 灰谷健次郎 (著) 長新太(絵)
 
=たいようのおなら =

たいようがおならをしたので

ちきゅうがふっとびました

つきもふっとんだ


星もふっとんだ

なにもかもふっとんだ

でもうちゅうじんはいきていたので

おそうしきをはじめた

 

 

=おとうさん=

おとうさんのかえりが

おそかったので

おかあさんはおこって

いえじゅうのかぎを

ぜんぶ しめてしまいました

それやのに

あさになったら

おとうさんはねていました

 

 

=なかなおり=

わたしが五さいのとき

おとうさんと

おかあさんが

ふうふげんかをしました

でもいまは

そんなことはわすれています

きょうは 土よう日

あしたは 日よう日

あさっては 月よう日です

 

 

=かげ=

ゆうがた おかあさあんといちばへいった

かげがふたつできた

ぼくは おかあさんのかげだけ

ふまないであるいた

だって おかあさんがだいじだから

かげまでふまないんだ

 

 

=停電=

停電の夜

あんなところに

トタンのあな

星のようだ

 

=こころ=

せんせいは

なんのこころをもっているのですか

それをおしえてください

わたしは

なんのこころをもっているのですか

おしえてください

 

 

=いぬ=

いぬは

わるい

めつきはしない

 

 

=ただいま=

おかあさんがしごとにいっているから

学校からかえって

「ただいま」

といっても

だれもこたえてくれない

でもわたしの心の中に

おかあさんがいるから

へんじをしてくれる

 



近くに、言葉を引き出してくれる大人がいる子どもは幸せだ。なーに? と聴いてくれるからこそ、安心して話したり、書くことができる。
聴くという行為は、受動的な行為ではない。かなり強めの能動的な行為である。一見、ささやなかに見える聴くという行いが、確固たる愛情に下支えされているかどうかを、子どもはちゃんと見計っている。
 
 
 
 



※「子どもへの恋文 」(角川文庫))灰谷 健次郎 (著)  

 

詩集ではないが「子どもへの恋文」も、時折開く1冊。「子どもと共に生きることによって、生かされてきた」と語る著者の記録である。児童詩誌「きりん」の中の作品を多く紹介。

子どもの心の内奥から放出されるまっすぐな言葉には、いつも打ちのめされてしまう。一人の例外なく、子どもの心の中には、地球上に生きる人類が想像し得る、すべての願いや夢が詰まっている。

もしももしも、地球がなにかの拍子で消えてしまったとしても、言葉がいっぱい詰まった子どもの心は、宇宙の中で何千年も何万年も漂って、いつか必ず神さまのところに届く。そう信じている。

 

=月=

一人でお風呂に行っての

帰り道

月がわたしに

ついて来る

わたしが家に入ったら

月はどうするのかしら

 

 

=おなら=

ぷすん

ぽすんと

おならをこきました

それから

わたしは

おくさんごっこをしました

 

=夕日=

夕日が でると、

目が、つむれてくる

なんだかさみしいことが

体中を、とびまわる

夕日が、とびまわらす

 

=あそんで=

かあちゃん

びょうきで ねてんねん

おとうちゃん かいしゃ

にいちゃん いえにいいひんねん

おれな

よその子の こままわし

じっと みてるねん

 

 

 

キヨシさんのこと。

 

大学時代。横浜市内のある駅の売店でバイトをしたことがあった。売店といっても構内に2本あるホームの売店にジュースやビール、牛乳などを運ぶ、いわば運び屋だ。

 

牛乳瓶が60本入ったケース1箱は、おそらく20キロ以上の重さがある。それらを缶ジュースや缶ビールの箱と組み合わせ、2箱から4箱、肩に担いでは跨線橋を渡って向かいのホームの売店まで運ぶ。階段を1つ上るたびに、腰がみしみしと音をたててきしんだ。が、運んだあとは品切れになるまで倉庫で休むことができた。時間で計算すると、割のいい仕事ではあった。

 

キヨシさんは右足に障害があった。年は60ちょっと前。しばらく、ホームレスで暮らしていたが行政機関の紹介で、日雇いで働くことになったのだった。前歯の1本が欠け、言葉はどもっていて、私のことを少し空気が抜けた感じで「に、に、にーちゃん」と呼んだ。笑うと顔中が皺だらけになった。いつも、面白くもなんともない冗談で人を笑わせた。


身長は145センチくらい。痩せ細っていたキヨシさんが一度に運べるのは、せいぜいビール箱1つだった。毎日会社に顔を出していたが、そのうち無断欠勤が多くなり、ある日突然クビになって、みんなの前から姿を消した。



そんな私も毎日の重労働で腰を痛め、その翌月にバイトを辞めた。でも、食わなきゃいけない。仕送りはわずかしかなかった。


数日たって、横浜駅地下にある蒲鉾屋でバイトを始めた。そんなある日、駅地下の通路の片隅で、キヨシさんを見かけたのである。

 

冷たい床に敷いた段ボールに座って、とろんとした目で宙を仰ぐ様子はホームレスそのものだった。薄汚れた作業服に、埃で灰色になった頭。顔も腕も脂ぎって、褐色に見えた。


「キヨシさん」と声をかけると「に、に、にーちゃん。げ、げ、元気か」といってくれた。かわいい笑顔は、相変わらずだったが、前よりいっそう皺が増えて見えた。

キヨシさんは、毎日毎日、同じ場所に座っていた。ある日、いつものように挨拶すると「に、に、にーちゃん。ひっ、100円貸してくれ」と泣きついてきた。ジーンズの前ポケットから硬貨を2枚出し、キヨシさんに手渡した。数日後、顔を合わせると、同じことをいってきた。その日は、100円玉1つを手渡した。


今度は、バイトの店の前にキヨシさんが現れた。ボロ雑巾みたいに全身がいっそう汚れて、見るからに悲惨だった。目が合うと、少し悲しそうな顔でニコッと笑って見せた。途端に「知り合いか。追っ払え」と店長に叱られた。


足を引きずるキヨシさんを店から離れた場所まで、手を引いて連れて行った「な、なんか食わせてくれ」とキヨシさんがいった。2日間ほど何も食べてないという。お金もとっくに尽きたのだろう。

 

店に戻って店長に事情を話し、賞味期限切れの薩摩揚げ数枚を安く売ってもらい、キヨシさんのいる場所まで戻った。そして「キヨシさん、だめだよ、お店まで来ちゃ」といって手渡した。くすんだ感情が冷たくなって、自分の背中をゆっくり伝わっていくのが分かった。


1週間後、キヨシさんはまた店の前に現れた。私はといえば、すっかり無視を決め込んで、頑なに視線を合わせることはしなかった。それから一度も、キヨシさんを見かけることはなかった。


あの日から数日が過ぎ、キヨシさんがいた場所には、ほかのホームレスたちが陣取っていた。毎日、そこを通るたび「キヨシさん、知りませんか」と尋ねてみたが、みんな首を横に振るだけだった。

 

 

ひとりぼっちこそが。

事務所には毎日のように宅急便が出入りする。こちらから「時間指定」で送ることは滅多にないが、留守のときには、再配の連絡をすることになる。

 

1つの小さな荷物のために同じ道を往復する。ほんとうに気の毒だ。当たり前だが、それが「当たり前」となっている。ときには大きく遠回りをするという非効率の積み重ねで「当たり前」は遂行される。

 

冬は凍結道路や雪道。夏は猛暑。きのう、荷物を届けてくれたドライバーさんは「花粉症がひどくて、雨のほうがありがたい」と笑っていた。再配に「申し訳ありません」というと「これもサービスですから」と言う顔は疲弊しきっている。

 

停電になると、一刻も早い復旧のために保安技術者たちが現場に向かう。雨の日、雪の日。電柱にのぼり高圧電線に触れようとすると、絶縁手袋と電線の間に、青く太い電気の火が走ることがある。電気の火はときに、大人の身体を数メートルも吹き飛ばす。何人もの同僚をこの事故で亡くしたという話を、電力会社の社員に聞いたことがあった。

 

父は鉄道員だった。コンピュータなどない時代のこと。単線の線路に列車を相互に走らせるために手書きで運行のための計図を描く。踏切や駅との連絡を密にし「人力」で日に数十本の列車を通過させる。子どもの頃、駅にいる父に弁当を届けに行くと、ふだんはのんべいで陽気な男たちに、別の顔があることを知った。その男たちの何人かが列車の連結や保線作業で命を落とした。同じ長屋のA子ちゃんのとうさんも、B君のとうさんも線路で死んだ。

 

郵便も新聞も宅急便も届いて当たり前。バスも電車も飛行機も定刻発着が当たり前。リモコンのスイッチを押しさえすれば、テレビが映って当たり前。電気も水道もそこにあって当たり前。

 

事故が発生すると企業や組織に寄せられる非難の電話は数千、数万にのぼるという。有名人の「失言」も同じ。SNSは炎上し、苦情電話は鳴りやまず、これでもかという悪い言霊を使って相手を貶める。これまで、大企業の広告を垂れ流してきたマスコミも、鬼の首でもとったかのような手のひら返しで責任を追及する。

 

会見の中継で、失態に頭を下げる企業幹部に向かって「あんたら、もうええわ、社長を呼んで」と言った記者がいた。この記者たちの給料の大半が、大企業からの広告収入で賄われる。彼らの根底にある人間性の稚拙さは、失言で辞職を余儀なくされたどこかの知事と変わりない。

 

関係者でもない人間が「当たり前」の権利や正義を声高に叫び、過失を一方的に責めたてる。自分にそんな資格があるかどうか。いつも考えてしまう。

 

生活の「当たり前」を支える全ての人たちに、一言でも「ありがとう」と言ったことはあるか。自分が担当記者だったらどう書くか。いつも、自問し続けてきた。

 

誰かがテレビで、こんなことをいっていた。「敬意っていうのはね、敬意を払った相手からしか、返ってこないんじゃないかな」。

 

 


「ひとりぼっち」こそが 最強の生存戦略である」 

名越康文 (著) 夜間飛行(発行)

 

テレビで時々見かける、関西弁丸出しの精神科医。人なつっこい笑顔と分かりやすい解説、的確な文章。「群れから離れ、ひとりぼっちで過ごす。そのときだけ人は孤独から解放される」というパラドクスを理解し、実践できる日本人はどれくらいいるだろう。

 

他人と自分を比べていないと、自分という存在を確認できない。誰かを見下すことは、典型的な「群れ」の思考。

 

・他人の声に頭が占拠されている状態こそが、本当の意味での「孤独」。孤独な人は、愛情を秤にかけて「これだけあげるから、私にこれだけ返して」という駆け引きをしてしまう。

 

・心の隙間を他人に埋めてもらおうとする試みは、必ずと言っていいほど失敗します。

 

群れの外側に立つと、群れの内側の世界観の歪みは、よく見えます。しかし、群れの内側からは、そもそも「群れの外側の世界が存在する」ということすら認識できない。

 

「群れ」の中で生きる人は普段、いろいろな人の意見に振り回されて生きている。でも、ひとりになって心が落ち着くと、自分も周りも活かせるような考えが降りてくる。それを実践できるようになることが「自立」の定義。

 

私たちは「変わる」ことが苦手になったのだと、私は思います。

 

 

互いが互いに同質化することで、群れ全体が均質化していく。役所などは典型的な同質社会だが、日本では大小の企業組織、自由に論を発信できるはずのメディア、医療や福祉、小中高の部活動、学術の世界にいる人間でさえ、自分が生きる組織=群れの内側だけが「世界の全て」と思い込んでいる人が少なくない。自由を望んだはずのフリーランサーの多くも、群れの中の構成員となって、結局は、そこらの組織と同じ枠組みの中で人生を送っている。そんな同業者を、いやというほど多く見てきた。群れの中での自己実現、虚しさから逃れることは難しい、と著者は説く。「自分の認識の壁を乗り越えるということは、心理学的にみて、その人の人生に他では得られない、大きな喜びを与えてくれる体験です」という「ひとりぼっち」論は潔く、日本人の生き方にチクりと、痛く響く。

 

 

 

 

 

「黒」と「玄」。

デジタルカメラが主流になる以前、写真の現像といえばプリント、ポジともにラボに預けるよりほかはなく、手焼きで仕上げるのはちょっとオタクな人か裕福な部類に入る人たちだけだった。

 

白黒フィルムだけでもフジのネオパン、コダックのトライX、イルフォード、アグファなどの多くの種類があり、それぞれに個性があった。焼き方は同じでも仕上がりが異なる。そこが面白かった。

 

なかでも白黒写真は撮影者が暗室で仕上げるのが常で、覆い焼きや焼き込みといった手法でコントラストや明暗を使い分けていく。撮影手法はもちろんだが、フィルムの種類、仕上げの段階からも作風を主張することができた。

 

若い頃はポジを使うのにコストがかかり、白黒で撮ったネガを暗室で焼くことが多かった。それでも、特殊な現像が求められるトライXなどは、急ぎの仕事が増えるに従い、時間とコストの問題で使いづらくなっていった。

 

暗室では、液剤の底から、画像が浮かび上がるさまを凝視し、黙したまま現像作業にあたる。いまでも、白黒の写真集を開くとき、暗室で焼き加減を調整する撮影者の表情を想像してしまうのは、こうした経験が根底にあるからかもしれない。

 

 

 

デジタル写真の場合は、暗室ではなくパソコンの画像ソフトで仕上げることになる。何年使っても上手に操れず、情けない。白黒の表現は難しい、に尽きる。パソコンの扱いはさらに。

 

白黒の「黒」は「玄(げん)」と同義語だが、中国古代では「奥深い」といった意味としても使われた。のちに日本で定着した仏教では「玄関」など「奥深い道へ踏み入る関門」をあらわすような用語となり「幽玄」「玄人」などの言葉の由来にもなっている。

 

美術家の篠田桃紅は「玄というのはまた、一筆の濃墨で書くのではなく、淡い墨を重ねて刻していき、真っ黒の一歩手前で控えた色」と書いた。完全な「黒」を超えたところにある「黒のまた黒」でありながら、真っ黒、漆黒とは異なる。「黒」の手前にある黒だけに「動きを残す黒」になる、という意味だろうか。

 

私たち日本人が、白黒の世界に奥行きを感じ取れるのは「玄」が単に伝統色というだけではなく、色を超えた宗教的ともいえる世界をそこに感じ取れるから、と考えたほうがよさそうである。

 

 

写真/青森県立美術館HPより
 

「小島一郎写真集成」 インスクリプト

黒を超えて「玄」を求め、浮き彫りにされた世界が、写真を超越した画風を醸している。作品に動きや奥行きが感じられるのは、篠田桃紅が述べるように「玄」ならではの運動性を極めようとしているからだ。カメラやレンズの優劣など問題ではなかった。津軽の風土とそこに生きる人々に敬意を払い、共感し、心揺さぶられ、自らの心象風景に重ねつつ、誠実な暗室作業を行った。故郷の生活者の視座を軸に据えた撮影者は、昭和39年、39歳の若さで急逝する。商業写真がはびこるこの日本で、もっと注目されてよいと思う。

 

 

 

 

 

「はる」という名のネコ。

前の前の年の秋頃から、庭先に通ってきた野良ネコがいた。週に何度か縁側で休むようになった。撫でてやると、体をすり寄せてくる。冬になっても、週に数回、やってきて、その回数は少しずつ増えていった。

 

雪の日は、雪を漕いでやってくる。朝、窓の外を見ると、足跡があるので、すぐにわかった。深夜は、どこかの軒下で雪と寒さをしのいでいたのだろう。明るくなると、窓の外でじっとこちらを見つめる彼がいた。その都度目を見ながら、あなたは、ここでは飼えないからね、と言い聞かせてきた。

 

秋になると、綿毛みたいなふさふさの白い毛になった。冬が過ぎ、3月。毛はうす汚れて灰色に変わり、ある日から突然、足元がふらつくようになってきた。野良同士のケンカに負けて顔中血だらけになってくることもあった。このままだと、夏まで生きられない。そう思った。

 

役所や愛護団体、ネコカフェなどに連絡して対処方を聞いてみた。まずは保護です。病院で必要な検査をしワクチンを打ち、十分に人慣れしてから、その段階で受け入れるかどうかを検討しましょう。どこも、おおよそ、そんな答えであった。その際にはお願いしたいと、いくつかのルートを確保しておいた。

 

ホームセンターで餌の缶詰、かりかりごはん、キャリーケース、トイレやトイレシート、大型ケージなどを購入。後日、縁側にちょこんと座ったところを抱き上げ、キャリーケースに突っ込み、動物病院に走った。ケースの中の彼は、全身を小刻みに震わせ、鳴き声ひとつ出すことはなかった。

 

ノミやダニを駆除する薬剤を首のあたりに塗り込み、血液検査をし、ワクチンを注射していただいた。検査の結果は、免疫不全となる不治の病だった。野良ネコの約3割は罹患しており、何年も発症しない場合もあるが、発症した後の寿命は長くないという。先生の申し訳なさそうな表情を見て、こちらも申し訳ない気持ちになった。

 

薬剤が全身に効くまでに1週間。この間、ケージから出さずに餌を与え、トイレ掃除に徹する。慣れているネコであれば自分でシャンプーもできるが、一度、嚙まれたこともあったので、少し怖い。

 

病院でもシャンプーは受け付けてくれる。しかし、予約は1カ月先まで一杯。市内のペットショップやトリミングサロンにシャンプーをお願いできるか尋ねたが、野良で保護したばかりと話すと、全て断られた。

 

あきらめかけていた矢先、やってみましょう、と引き受けてくれたのが、A町にある小さなトリミングサロンだった。予約をして翌日、お店に向かう。私も先日、保護したばかりです、という受付のお姉さんとやさしいお兄さんが見事、全身をきれいにしてくれた。

 

自分も家族も、少し苦手なあの人だって、いつかは、この世から消えていなくなる。それだけは確かなことだ。にもかかわらず、生命の終わりを宣告され「死」が見え始めると悲しい気持ちになるのは、なぜなのだろう。いつかは死んでしまうのに、生まれてくる意味、生きていく意味とはなんなのだろう。そんなばかみたいなことばかり、考えてしまう。

 

生きることのゆたかさは、何もかも、いつかは終わってしまうという真実を、どれだけ受け止めているかの量に比例する。そうした現実に、何もできないという無力さとも。

 

あの日から、3年が過ぎた。春に一緒に暮らすことになったので、名前は「はる」。毎日を大切に生きていきましょう。

 

 

雪が降る前から、週に何度かやってきて、縁側の窓ガラス顔をくっつけて休んでいた。鼻と頭にひっかき傷。このときはまだ、からだががっちりして、元気そうに見えた。

 

 

冬を越し、保護した日は、すでによれよれの状態だった。このままでは死んでしまうと判断した。ケージなど、ネコを飼うために必要なものを購入。保護したあと、動物病院に走って必要な検査をした。免疫不全となる不治の病だった。もう少し早く、保護すればよかった。

 

 

受診して10日後、市内のお店でシャンプーもしてもらった。あちこちお店を当たったが野良、というだけで断られた。お店のおかげで飼いネコみたいにきれいになった。おびえながらケージから出た日。

 

今日も元気。ずっと一緒に、元気に暮らしましょうね。

 

 

 

 

 

 

 

任せる。

父が亡くなって30年以上が過ぎた。実家は北海道の小さな町。母にはずっと一人暮らしをさせてきた。申しわけないと思いつつ、年に一、二度しか帰省してこなかった。

帰るたび、母子二人で行う作業があった。作業といっても、小さな金庫を開け、通帳や生命保険の証書の中身を確認するだけである。


父が残した財産など皆無に等しく、母はわずかな年金をコツコツ積み立て、質素な生活を続けてきた。自分がボケてしまって、おかしなことにお金を使っていないか。証書の更新を忘れていないか。なくした通帳はないか。5分もあれば終わる作業が、いつの間にか、母と私をつなぐ絆となっていた。

金庫には常に100万円の現金が入っていた。チラシに包んで、粗末な輪ゴムで束ねてあった。自分が倒れたら、預金の引き出しなどで苦労をかける。おまえたちの交通費もかかる。葬儀を含んでも、自分はこれでおさまる範囲で十分である。何かのときに、これを使うといい。「お前に任せる」が口癖だった。
 
 
認知症が進んだのは、その頃からだ。冷蔵庫に同じ種類の調味料が10本、15本。カップ麺が棚に50個。あれだけきれい好きだったのに玄関やトイレなどに掃除の痕跡が見られない。銀行で同じ金額を出し入れする、そうした奇妙な行動が目立つようになった。通帳を確認する際、人ごとみたいに二人で驚いたりした。
 
地元の役所で要介護認定を受けた。見守りを兼ねて、週に1度、ヘルパーさんを手配したが、その後「知らない人が来ている」と頻繁に電話がかかってくるようになった。

我が家への転居を勧めると「任せる」と応じてくれた。土地と家の処分。狭い土地と小さな平屋である。札幌に住む妹が何度か来て、荷物の整理をしてくれた。処分を徹底し、我が家へと運ぶ荷物は、宅配便の単身用パック一つにまとまった。

土地は、近所のAさんに譲渡することにした。私たちが1円も受け取らない代わり、Aさんは解体・整地費用の約80万円を業者に支払う。解体すると市から20万円の補助金が出る。Aさんは60万円の出費で済む。

田舎にある実家は「住まない・売れない・貸せない」の三重苦といわれる。自分たちがこんな現実に向き合うことになるとは思わなかった。


我が家に転居してきた当初はデイサービスとショートステイを利用しながら同居を続け、その後、近くのグループホームに入居することができた。母との同居は9カ月でピリオドを打つことになる。

もう一緒に住むことがないのだなと考えると、人生で親子がともに過ごす時間の短さに改めて驚いたことを覚えている。入居を決める前の「任せる」の一言が救いであった。


信用と信頼は、似ているようで、とても違う。預金の残高や会社の肩書など、条件を担保に人を信じるのが信用。一方、残高がゼロでも、日頃どんな行動をしているかも問うことなく、条件なしで相手を信じようとするのが信頼である。


インフルエンザに始まり、新型コロナのまん延で一、二度の面会しかできないまま、昨春、母は静かに旅立っていった。施設では職員に、病院では医師や看護師に様子を尋ねると毎回「変わりません」という言葉が返ってきた。しかし、実際、変わらないことなど、何一つなかった。

記憶が刻々と薄れていくなかでも、力を振り絞り、我が子を信じようとする姿があった。それはときに「お前の生き方はそれでよいのか」との鋭い問いに変わって、私に迫った。

肉体が枯れ、やがて記憶がマーブル模様になって失せるとしても、私は母に追想の花を重ねて眺めることができる。母は母で、記憶の断片と手をつなぎ、彼の地の旅を続けているだろう。
 
大好きだったルンバを踊っているかしら。そんなことを、まじめに考えている自分にあきれてしまう。