言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

犬と人。

おつきあいのある会社に雑種の大きな犬がいた。こんにちは、といって玄関を開けると、はっはっはっと息を切らして事務所の奥から、走ってくる。


からだを脛にこすりつけながら顔をあげ、目が「撫でろ」といっている。喉元をさすり、頭を撫で、おなかをポンポンポンと叩いてあげると、来客用の椅子に飛びのり、そこですぐに眠ってしまう。

飼い主のAさんは、野良犬をつかまえ、毎晩、犬鍋にして食っているようないかつい顔の人だった。でも、顔に似合わず、ほんとうは、人も犬も大好きな人で、私もAさんのことが大好きだった。

犬は、ずっと椅子の上で眠っていたくせに、帰り際には目を覚まし、玄関先まで、はっはっはっといいながら見送りをしてくれた。振り向くとガラスのドアの向こうにきちんと座って、いつまでもこちらを向いていた。



昔、家でタロという名の雑種の犬を飼っていた。コリーの血が半端に入った鮮やかな茶色の犬で、耳と鼻のかたちの精悍さだけはコリーの面影を残し、胴体といえば、やせて毛並みもあまりよい犬ではなかった。昔のことだから、庭に粗末な小屋を設け、鎖でつないで飼っていた。

4歳のときから一緒だった。最後の3年間は横浜にいたので、正確にはずっと一緒ではなかったことになる。

タロとは兄弟のように育った。タロのそばで薪割りをし、キャッチボールをし、タロが幼い頃は、一緒に犬小屋に入って昼寝をし、毛だらけになっては、母に叱られた。

冬になると、寒さと雪で、喉元から腹にかけて毛が凍りつき、お腹のあたりに小さなつららができることもあった。それでも、庭に出ると散歩に連れて行けとせがんで吠える。寒さも雪も大好きな犬であった。

近くの公園まで連れて行き、鎖から放すと、全身雪だらけになって走り回る。粉雪だらけの真っ白な顔で、戻ってきては撫でろとせがんだ。両頬をくしゃくしゃに撫でると、全身が真っ白になって、また雪野原を駆け回る。こうしてやると、マイナス20℃の厳寒の夜も、ぐっすりと眠るのだった。


その夜は、渋谷のアルバイト先にいた。そこに父から電話が入った。「タロ、死んだ。一応、知らせておく」。数日前から足がふらつき、最期は父の腕のなかで息を引き取ったという。「庭を掘って埋めた」。そういって、父は少しの間絶句し、鼻水をぐすっとすすった。17年のいのちだった。


当時、実家に帰るのは、年に1度あるかないか。バスを降りて、まっすぐなゆるい坂を昇っていくと、新しい家の谷間に埋もれるようにして、古く狭い平屋の実家があった。小さな庭だが、母の手で丁寧に植えられた花や野菜は、遠くから眺めても、元気いっぱいに見えた。

タロが生きていた頃は、坂を昇り始めるとすぐに私の気配を感じ取り、ワオワオと吠えて迎えてくれた。犬小屋に近づくと、はっはっはっと抱きついて、しばらく私を離さなかった。

 


いまはタロの声もなく、あの家も、父も母もいない。いかつい顔のAさんは、ある日突然、私の事務所を訪ねてきて「俺の遺言書いてくれ」と言い残し、1カ月後に亡くなった。「世話になった人たちに感謝の言葉を遺したい」といったが、願いはかなわなかった。腎臓がんだった。Aさんの犬も、Aさんのあとを追うようにして、確か、ひと月もたたない頃に死んでしまった。

 

人も犬も、身近にいるどんな生き物も例外なく、私を残して死ぬはずはない。長い間ずっと、そう信じきっていた。だけど、何かの法則に導かれるように、あらゆるいのちが、いつか必ず未完のままに終わってしまう。日々果たすべきことを誠実に果たし、平凡を厭わず生きる者の凄みが、痛く感じる年になった。

 

 

 

 

手入れと丁寧。

朝の「拭き掃除」を始めて15年ほどになる。雑巾を固くしぼって玄関の土間や仕事場の机、リビングの床などを拭く。きれい好きというわけではなく、手入れをすることで空間がきれいに見えてきて、頭の中が整理されていくのが心地よい。

 

拭き掃除を始めてから、道具の手入れも意識するようになった。クルマは9年目になる。整備工場に入れると、毎回、スタッフの方々から、手入れがいいですねとほめられる。クルマの外も車内も、汚れたらきれいにする、調子が悪くなったら整備に入れる。当たり前のことしかしていない。むやみにスピードを出さず、丁寧に運転することで燃費がよくなり、ボディーの傷みも少なくて済む。軽の四駆だが、この季節の燃費は、街中でリッター21キロを超える。自分の中では、まあ、合格点。

 

クラシックギターは1977年に購入した。弾き終えるとガーゼで全体をさっと拭き上げ、音叉でチューニングをしケースにしまう。この方法が正しいかどうかは知らない。弦は昔から、オーガスティンの青。詳しいことはわからないが、このギターとの相性がいい。ラジオやバリカン、カメラ、時計、家具(この2年で8割を処分した)など30年以上使っているものはたくさんある。丁寧に手入れしたものは長く使える、ということは統計的にも確かなようだ。

 

こんなに「タイパ」(タイムパフォーマンス=時間対効果)の悪いことに、何の意味があるのだろうと、嫌気がさすこともある。しかし、すでに身体が「型」を覚えて、おのずと、そういう動きをするようになってしまった。ほんの10分ほどで目の前がきれいになり、モノが長持ちする。タイパはよくないが、コスパはいい。

 

モノに埋もれて暮らすのはごめんだ。消費と処分を繰り返し、効率を優先しても、きっと楽しくない。朝、ゆっくりと床を拭くことで、その日の気温や水の温度を感じ、季節の移ろいを体感する。日々異なる床の堅さや匂いを感じつつ、片隅に小さな綿埃を発見して、あららと驚いたりする。ほんの少し意識をすれば、いくらでも得ることはある。

 

あのとき、あの人の話を、もう少しゆっくり聞いておけばよかったとか、きのう書いたレポートの何行目の表現は、違う言葉がよかったかも、といったことが頭に浮かんでくる。これらは雑念とは違う種類の思考だ。澄み渡った空気、高いレンズ性能でしか見えてこない風景があるように、丁寧な身体の動きと感応で思考の「解像度」が上げられる。

 

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「磨針(すりはり)峠」(小倉遊亀 おぐらゆき 滋賀県立博物館 1947)

 

 

日本画の巨匠・小倉遊亀おぐら ゆき 1895- 2000)に「磨針(すりはり)峠」という作品がある(写真上)。右に若い僧がいて、左では老婆が斧を研いでいる。若い僧は、厳しい修行に耐えかねて山を下りる途中である。

 

二人の視線が交わったときに老婆が「一本しかない針が折れたので、斧を研いで針を作っている」とつぶやく。若い僧は、その一言で己の修行の足りなさ、浅はかさを悟り、寺に戻ることを決意する。

 

老婆は観音菩薩の化身、僧は若き日の弘法大師とされる。美術館の解説にはこう書かれている。「この僧の姿には戦後の混乱期に日本画一筋に邁進する決意を固めた、作者自身の姿が投影されているとも言われています」。

 

身体を動かし、丁寧に空気や素材とふれあうことで感応が生じる。その感応とはおそらく、斧から針を作るような、強く意識された時と時の「間」、人と人の「間」の深いところからも生じるものである。従前、私たちが求めてやまなかった効率とは真逆のところにあるその「間」から、人の奥に眠る仏性が姿をあらわすこともある、と信じている。

 

 

 

小樽。

週末、小樽を歩いた。1年ぶりのことだ。今回も、天気に恵まれた。これまで10回以上訪れているが、不思議なことに、悪天候だったことはない。

 

明治から大正にかけて北海道における経済・文化・商業の中心地として栄え「北のウォール街」と呼ばれた。そして、小樽といえば、運河。70年代後半、保存を訴える市民団体と行政側が対立。当時は札幌にい。埋め立て前の写真を撮っておこうと何度も足を運んだ。記録したポジフィルムは、いまも大量に保管してある。あの頃は、周囲にドブの臭いが漂い、いまにも崩れそうな古い建物がひしめき合っていた。幅40mの運河の半分の埋め立てが決まり、片側3車線の道路をつくる工事が実施されたのは1984年秋のことである。

 

小樽は終戦直後、サハリンから引き揚げてきた父の家族が暮らした街でもある。1945年8月11日、ソ連樺太に侵攻し、15日の終戦後も攻撃は続いた。20日には樺太西海岸の真岡町(現ホルムスク)にソ連軍が上陸。この真岡町が、父が生まれ育った故郷であった。

 

サハリン南部(南樺太)には40万人以上の日本人が居住していたが、北海道方面への緊急疎開が行われ、10万人が島外に避難。22日には小樽などに向かう避難船3隻がソ連軍に攻撃され、約1700人が死亡した(三船殉難事件)。

 

犠牲者の大半は女性や子ども、老人だった。陸上でも2千人以上の民間人が犠牲になり、集団自決が相次いだ。真岡郵便局では、女性の電話交換手12人のうち10人が局内で自決を図り、17歳から24歳までの9人の若い女性が亡くなっている。この9人の霊を慰めるために建てられたのが、稚内にある「九人の乙女の碑」である。交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフには、彼女たちの最後の言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の文字が刻まれている。あの瞬間も、父たちは同じ街で同じ時間のなかにいたことになる。

 

引き揚げ船にまで容赦ない攻撃が加えられた。生後6カ月だった叔母(父の妹)のA子おばちゃんは、ソ連の狙撃兵が放った銃弾が右の眼球をかすり、失明。重傷を負った乳飲み子を抱え、急ごしらえの引き揚げ船で函館や小樽をめざした祖父母や子どもたち(叔父や叔母たち)の不安はいかばかりだったか。

 

鉄道員だった父は家族を見送り、一人、技術者としてロシア領となった現地にとどまり仕事をつづけた。家族と再会したのは1948年の函館で、その翌年に小樽に転居している。父がなぜロシア語が堪能だったのか知ったのは、中学生になってからのことだった。

 

漁師をしながら画家として名を馳せつつあった祖父は、家族を食べさせるために大工となり、祖母は露天商として飴を売り歩いた。家族はその後、旭川を経て、景気が上向いていた空知地方の炭鉱町にたどり着く。

 

 

古びた石造りの倉庫や黒い煙突の伸びた木造の家。山手に向かってなだらかに伸びる幾本もの坂の向こうにそびえる天狗山が、海からの風を真正面から受け止める。こうした地形が風や水、光、そして女までもきれいにするのだと、昔、この地で会った人がいっていた。

 

人が故郷に吸い寄せられるのは、死のいちばん近くにいるはずの自分を忘れさせてくれるからだ。音のない声が396 Hzのソルフェジオ周波数みたいに頭のなかにずっと流れている。清涼な潮風が脊椎を貫き「私たちの魂はここにある」と細胞の隅々にまで問いかけてくる。

 

押し寄せてくる懐かしさは温かいが、生傷みたいに湿っている。私たちはみんな、失われた存在に支えられているのだ。このことを忘れそうになる頃、小樽に呼び寄せられる、そんな気がする。

 

小樽運河。古い倉庫群はいまも博物館やショップ、カフェなどとして使われている。澄み切った空気、透明な光はレンズを通しても感じられる。
 

父の家族が暮らす前からあったはずの石造や木造の建築群。路地裏の静寂の中でふと、時間がぐにゃりと歪む瞬間がある。
 

 

 

ノスタルジックな異国情緒を感じるのは、石造りの建物が多いからだろう。多くは木骨石造(もっこつせきぞう)と呼ばれる構造で、外からは石を重ねたように見えるが、内部を見ると木材の柱や梁の骨組みがある。高い防火性と夏は涼しく冬暖かい特性から倉庫などに適し、壁材となる軟石は小樽や札幌近郊でよく採れた。※2017年に撮影した写真も掲載しています。
 
 
 
 


じゃあね。

新千歳空港からの電車を札幌で乗り換え、Aという町まではかれこれ90分。そこから、実家のあるB町まではわずか9キロだが、ここからの交通の便が極端に悪い。バス、電車ともに1時間に1本。待ち時間なしで、空港からA駅まで来ても、いつも駅で1時間ほど時間を潰すことになる。

 

A駅からバスに乗って実家近くのバス停に着くと母の顔が見えた。母が元気だったころの話である。

 

おおよそ、家に着く時間は知らせておいたので、そこから逆算して、このバスを割り出したに違いない、そう思った。しかし、前のドアからバスを降りた途端、母は後方にある乗車口からそそくさとバスに乗り込んでいった。「ちょ、ちょっと!」とバスの外から声をかけると、車内で座席についた母が、驚いた顔をしている。仕方なく、降りたバスにまた飛び乗った。

 

振り返れば、そのころから、認知症の症状が強くなっていた。本人は「なんで、帰ってきたの」と、いたって落ち着いている。車内の乗客の視線が一斉に私たちに注がれているのも気にしていない。「どこに行くの」と尋ねると「生協」という。まあいいかとあきらめて、そのまま一緒に買い物をして家に帰ってきたことがあった。

 

町は行くたびに、廃れていた。商店街のシャッターは大半が閉まっており、家の近所のゲンおじさんやノッポのかあさんの家、はじめちゃんの家も、いまはもう誰も住んでいない。

 

家に着いてすぐ、向かいのタザワさんの家に土産を届ける。母の見守りをお願いする意味でも、長らく、そうしてご挨拶をしてきたのだった。玄関のチャイムを押すと、おばさんが出てきて「また年とったねえ。ハッハッハ」と笑う。その明るさに、いつも助けられてきた。

 

炭鉱の景気のいい時代は、おじさんと2人で小さな店をやっていた。小学1年のときだった。誰も店先にいないのを見計らって、ガムを盗んで、あっけらかんと家に帰ったことがあった。テレビのCMで見た、新発売のガムがほくてたまらなかった。

 

タザワのおばちゃんは、すぐに気づいたらしく、徒歩7秒くらいで到着する私の家に来て「ダイちゃん、ガム、盗っていったでしょう」といって玄関の戸を開けた。私は上がり框にペタンと座って、ガムをクチャクチャ噛んでいた。おばさんは、そんな私の頭をゲンコで軽く叩いて「黙って盗ったら、だめなんだよ」と笑ったが、私は新発売のガムに感動してばかりいた。洋装店で働いていた母がその日はたまたま家にいた。平謝りに謝ったあげく、おばさんの目の前で、私はもう一発、とびきり痛いゲンコを喰らうことになる。

 

実家に帰った翌日は、いつもバスに乗って、母と二人でお寺に行った。我が家には墓がなく、お寺の骨堂に先祖の位牌も骨も預けている。サハリンで生まれ育った父は、北海道は自分の故郷ではないからと、最後まで墓を建てるのを躊躇った。その長男でもある私は本州にわたっている。私もまた、この地は故郷ではなく、ここに墓を建てるのを躊躇っている。

 

玄関が北西に向いた家の日陰には、4月の末まで雪が残る。周囲の新しい家に囲まれた古い平屋の家が、黒ずんだ雪の塊に溶け込むように見えるのが寂しくもあった。そんな家も、認知症の母を転居させた翌月には解体し、整地を終えた。親戚や知人たちに「思い切りがよすぎる」といわれたが、思い出は自分の胸だけに刻むと決めていた。

 

 

お寺から家に戻ると、母はいつも同じことをいった。「で、いつまでいるんだ」「明日、札幌に寄って、あさって家に戻る」「そうか」。実家に滞在するのはほとんどが2日程度。この家も、この町も、すでに私の生きる場所でないことだけは、確かなことだった。

 

 

忘れないという行為は「記憶する」という意味だけではなく「これでよかったのか」と、自らに問い続ける行為でもある。おそらく私は、これからもずっと、前を向きつつも後悔を繰り返し、揺れながら、生き場所と死に場所を探していくのではないかと思う。

実家をあとにするときはいつも、私から両の手を差し出し、母の手を握った。「じゃあね」というと今度は母が「ああ」といった。こんな短い言葉の往還で、私たちは別離を繰り返してきたのだった。

 

昨春、母の旅立ちの瞬間は、身体にふれることは許されなかった。まだ、コロナの最中だった。火葬の際に「楽しかったね、母さん」が、母にかけた最後の言葉となった。もっと気の利いたことをいいたかったが、胸がずんと重くなって、ほかの言葉は出てこなかった。

 

1年になるんだね、母さん。また、必ず、どこかのバス停で待っていてください。じゃあね――。誰にも気づかれぬよう、そうつぶやくと「ああ」という気のない返事が聞こえてくる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

子どもの言葉。

灰谷さんの本はたくさん読んで、たくさん捨てた。灰谷さんが亡くなったとき、そばに置くのがつらくなったからだ。
本を開くたびに、子どもたちの作文や詩に寄り添いながら、大人としての自分を律する姿が目に浮かぶ。
あれから何年たっただろう。いつの間にか、捨てた数を超える灰谷さんの本が棚に並んでいる。みんな買い直したのだ。
こんな詩が、いくつも散りばめられている。
 
 
「たいようのおなら」(のら書店) 灰谷健次郎 (著) 長新太(絵)
 
=たいようのおなら =

たいようがおならをしたので

ちきゅうがふっとびました

つきもふっとんだ


星もふっとんだ

なにもかもふっとんだ

でもうちゅうじんはいきていたので

おそうしきをはじめた

 

 

=おとうさん=

おとうさんのかえりが

おそかったので

おかあさんはおこって

いえじゅうのかぎを

ぜんぶ しめてしまいました

それやのに

あさになったら

おとうさんはねていました

 

 

=なかなおり=

わたしが五さいのとき

おとうさんと

おかあさんが

ふうふげんかをしました

でもいまは

そんなことはわすれています

きょうは 土よう日

あしたは 日よう日

あさっては 月よう日です

 

 

=かげ=

ゆうがた おかあさあんといちばへいった

かげがふたつできた

ぼくは おかあさんのかげだけ

ふまないであるいた

だって おかあさんがだいじだから

かげまでふまないんだ

 

 

=停電=

停電の夜

あんなところに

トタンのあな

星のようだ

 

=こころ=

せんせいは

なんのこころをもっているのですか

それをおしえてください

わたしは

なんのこころをもっているのですか

おしえてください

 

 

=いぬ=

いぬは

わるい

めつきはしない

 

 

=ただいま=

おかあさんがしごとにいっているから

学校からかえって

「ただいま」

といっても

だれもこたえてくれない

でもわたしの心の中に

おかあさんがいるから

へんじをしてくれる

 



近くに、言葉を引き出してくれる大人がいる子どもは幸せだ。なーに? と聴いてくれるからこそ、安心して話したり、書くことができる。
聴くという行為は、受動的な行為ではない。かなり強めの能動的な行為である。一見、ささやなかに見える聴くという行いが、確固たる愛情に下支えされているかどうかを、子どもはちゃんと見計っている。
 
 
 
 



※「子どもへの恋文 」(角川文庫))灰谷 健次郎 (著)  

 

詩集ではないが「子どもへの恋文」も、時折開く1冊。「子どもと共に生きることによって、生かされてきた」と語る著者の記録である。児童詩誌「きりん」の中の作品を多く紹介。

子どもの心の内奥から放出されるまっすぐな言葉には、いつも打ちのめされてしまう。一人の例外なく、子どもの心の中には、地球上に生きる人類が想像し得る、すべての願いや夢が詰まっている。

もしももしも、地球がなにかの拍子で消えてしまったとしても、言葉がいっぱい詰まった子どもの心は、宇宙の中で何千年も何万年も漂って、いつか必ず神さまのところに届く。そう信じている。

 

=月=

一人でお風呂に行っての

帰り道

月がわたしに

ついて来る

わたしが家に入ったら

月はどうするのかしら

 

 

=おなら=

ぷすん

ぽすんと

おならをこきました

それから

わたしは

おくさんごっこをしました

 

=夕日=

夕日が でると、

目が、つむれてくる

なんだかさみしいことが

体中を、とびまわる

夕日が、とびまわらす

 

=あそんで=

かあちゃん

びょうきで ねてんねん

おとうちゃん かいしゃ

にいちゃん いえにいいひんねん

おれな

よその子の こままわし

じっと みてるねん

 

 

 

キヨシさんのこと。

 

大学時代。横浜市内のある駅の売店でバイトをしたことがあった。売店といっても構内に2本あるホームの売店にジュースやビール、牛乳などを運ぶ、いわば運び屋だ。

 

牛乳瓶が60本入ったケース1箱は、おそらく20キロ以上の重さがある。それらを缶ジュースや缶ビールの箱と組み合わせ、2箱から4箱、肩に担いでは跨線橋を渡って向かいのホームの売店まで運ぶ。階段を1つ上るたびに、腰がみしみしと音をたててきしんだ。が、運んだあとは品切れになるまで倉庫で休むことができた。時間で計算すると、割のいい仕事ではあった。

 

キヨシさんは右足に障害があった。年は60ちょっと前。しばらく、ホームレスで暮らしていたが行政機関の紹介で、日雇いで働くことになったのだった。前歯の1本が欠け、言葉はどもっていて、私のことを少し空気が抜けた感じで「に、に、にーちゃん」と呼んだ。笑うと顔中が皺だらけになった。いつも、面白くもなんともない冗談で人を笑わせた。


身長は145センチくらい。痩せ細っていたキヨシさんが一度に運べるのは、せいぜいビール箱1つだった。毎日会社に顔を出していたが、そのうち無断欠勤が多くなり、ある日突然クビになって、みんなの前から姿を消した。



そんな私も毎日の重労働で腰を痛め、その翌月にバイトを辞めた。でも、食わなきゃいけない。仕送りはわずかしかなかった。


数日たって、横浜駅地下にある蒲鉾屋でバイトを始めた。そんなある日、駅地下の通路の片隅で、キヨシさんを見かけたのである。

 

冷たい床に敷いた段ボールに座って、とろんとした目で宙を仰ぐ様子はホームレスそのものだった。薄汚れた作業服に、埃で灰色になった頭。顔も腕も脂ぎって、褐色に見えた。


「キヨシさん」と声をかけると「に、に、にーちゃん。げ、げ、元気か」といってくれた。かわいい笑顔は、相変わらずだったが、前よりいっそう皺が増えて見えた。

キヨシさんは、毎日毎日、同じ場所に座っていた。ある日、いつものように挨拶すると「に、に、にーちゃん。ひっ、100円貸してくれ」と泣きついてきた。ジーンズの前ポケットから硬貨を2枚出し、キヨシさんに手渡した。数日後、顔を合わせると、同じことをいってきた。その日は、100円玉1つを手渡した。


今度は、バイトの店の前にキヨシさんが現れた。ボロ雑巾みたいに全身がいっそう汚れて、見るからに悲惨だった。目が合うと、少し悲しそうな顔でニコッと笑って見せた。途端に「知り合いか。追っ払え」と店長に叱られた。


足を引きずるキヨシさんを店から離れた場所まで、手を引いて連れて行った「な、なんか食わせてくれ」とキヨシさんがいった。2日間ほど何も食べてないという。お金もとっくに尽きたのだろう。

 

店に戻って店長に事情を話し、賞味期限切れの薩摩揚げ数枚を安く売ってもらい、キヨシさんのいる場所まで戻った。そして「キヨシさん、だめだよ、お店まで来ちゃ」といって手渡した。くすんだ感情が冷たくなって、自分の背中をゆっくり伝わっていくのが分かった。


1週間後、キヨシさんはまた店の前に現れた。私はといえば、すっかり無視を決め込んで、頑なに視線を合わせることはしなかった。それから一度も、キヨシさんを見かけることはなかった。


あの日から数日が過ぎ、キヨシさんがいた場所には、ほかのホームレスたちが陣取っていた。毎日、そこを通るたび「キヨシさん、知りませんか」と尋ねてみたが、みんな首を横に振るだけだった。

 

 

ひとりぼっちこそが。

事務所には毎日のように宅急便が出入りする。こちらから「時間指定」で送ることは滅多にないが、留守のときには、再配の連絡をすることになる。

 

1つの小さな荷物のために同じ道を往復する。ほんとうに気の毒だ。当たり前だが、それが「当たり前」となっている。ときには大きく遠回りをするという非効率の積み重ねで「当たり前」は遂行される。

 

冬は凍結道路や雪道。夏は猛暑。きのう、荷物を届けてくれたドライバーさんは「花粉症がひどくて、雨のほうがありがたい」と笑っていた。再配に「申し訳ありません」というと「これもサービスですから」と言う顔は疲弊しきっている。

 

停電になると、一刻も早い復旧のために保安技術者たちが現場に向かう。雨の日、雪の日。電柱にのぼり高圧電線に触れようとすると、絶縁手袋と電線の間に、青く太い電気の火が走ることがある。電気の火はときに、大人の身体を数メートルも吹き飛ばす。何人もの同僚をこの事故で亡くしたという話を、電力会社の社員に聞いたことがあった。

 

父は鉄道員だった。コンピュータなどない時代のこと。単線の線路に列車を相互に走らせるために手書きで運行のための計図を描く。踏切や駅との連絡を密にし「人力」で日に数十本の列車を通過させる。子どもの頃、駅にいる父に弁当を届けに行くと、ふだんはのんべいで陽気な男たちに、別の顔があることを知った。その男たちの何人かが列車の連結や保線作業で命を落とした。同じ長屋のA子ちゃんのとうさんも、B君のとうさんも線路で死んだ。

 

郵便も新聞も宅急便も届いて当たり前。バスも電車も飛行機も定刻発着が当たり前。リモコンのスイッチを押しさえすれば、テレビが映って当たり前。電気も水道もそこにあって当たり前。

 

事故が発生すると企業や組織に寄せられる非難の電話は数千、数万にのぼるという。有名人の「失言」も同じ。SNSは炎上し、苦情電話は鳴りやまず、これでもかという悪い言霊を使って相手を貶める。これまで、大企業の広告を垂れ流してきたマスコミも、鬼の首でもとったかのような手のひら返しで責任を追及する。

 

会見の中継で、失態に頭を下げる企業幹部に向かって「あんたら、もうええわ、社長を呼んで」と言った記者がいた。この記者たちの給料の大半が、大企業からの広告収入で賄われる。彼らの根底にある人間性の稚拙さは、失言で辞職を余儀なくされたどこかの知事と変わりない。

 

関係者でもない人間が「当たり前」の権利や正義を声高に叫び、過失を一方的に責めたてる。自分にそんな資格があるかどうか。いつも考えてしまう。

 

生活の「当たり前」を支える全ての人たちに、一言でも「ありがとう」と言ったことはあるか。自分が担当記者だったらどう書くか。いつも、自問し続けてきた。

 

誰かがテレビで、こんなことをいっていた。「敬意っていうのはね、敬意を払った相手からしか、返ってこないんじゃないかな」。

 

 


「ひとりぼっち」こそが 最強の生存戦略である」 

名越康文 (著) 夜間飛行(発行)

 

テレビで時々見かける、関西弁丸出しの精神科医。人なつっこい笑顔と分かりやすい解説、的確な文章。「群れから離れ、ひとりぼっちで過ごす。そのときだけ人は孤独から解放される」というパラドクスを理解し、実践できる日本人はどれくらいいるだろう。

 

他人と自分を比べていないと、自分という存在を確認できない。誰かを見下すことは、典型的な「群れ」の思考。

 

・他人の声に頭が占拠されている状態こそが、本当の意味での「孤独」。孤独な人は、愛情を秤にかけて「これだけあげるから、私にこれだけ返して」という駆け引きをしてしまう。

 

・心の隙間を他人に埋めてもらおうとする試みは、必ずと言っていいほど失敗します。

 

群れの外側に立つと、群れの内側の世界観の歪みは、よく見えます。しかし、群れの内側からは、そもそも「群れの外側の世界が存在する」ということすら認識できない。

 

「群れ」の中で生きる人は普段、いろいろな人の意見に振り回されて生きている。でも、ひとりになって心が落ち着くと、自分も周りも活かせるような考えが降りてくる。それを実践できるようになることが「自立」の定義。

 

私たちは「変わる」ことが苦手になったのだと、私は思います。

 

 

互いが互いに同質化することで、群れ全体が均質化していく。役所などは典型的な同質社会だが、日本では大小の企業組織、自由に論を発信できるはずのメディア、医療や福祉、小中高の部活動、学術の世界にいる人間でさえ、自分が生きる組織=群れの内側だけが「世界の全て」と思い込んでいる人が少なくない。自由を望んだはずのフリーランサーの多くも、群れの中の構成員となって、結局は、そこらの組織と同じ枠組みの中で人生を送っている。そんな同業者を、いやというほど多く見てきた。群れの中での自己実現、虚しさから逃れることは難しい、と著者は説く。「自分の認識の壁を乗り越えるということは、心理学的にみて、その人の人生に他では得られない、大きな喜びを与えてくれる体験です」という「ひとりぼっち」論は潔く、日本人の生き方にチクりと、痛く響く。

 

 

 

 

 

「黒」と「玄」。

デジタルカメラが主流になる以前、写真の現像といえばプリント、ポジともにラボに預けるよりほかはなく、手焼きで仕上げるのはちょっとオタクな人か裕福な部類に入る人たちだけだった。

 

白黒フィルムだけでもフジのネオパン、コダックのトライX、イルフォード、アグファなどの多くの種類があり、それぞれに個性があった。焼き方は同じでも仕上がりが異なる。そこが面白かった。

 

なかでも白黒写真は撮影者が暗室で仕上げるのが常で、覆い焼きや焼き込みといった手法でコントラストや明暗を使い分けていく。撮影手法はもちろんだが、フィルムの種類、仕上げの段階からも作風を主張することができた。

 

若い頃はポジを使うのにコストがかかり、白黒で撮ったネガを暗室で焼くことが多かった。それでも、特殊な現像が求められるトライXなどは、急ぎの仕事が増えるに従い、時間とコストの問題で使いづらくなっていった。

 

暗室では、液剤の底から、画像が浮かび上がるさまを凝視し、黙したまま現像作業にあたる。いまでも、白黒の写真集を開くとき、暗室で焼き加減を調整する撮影者の表情を想像してしまうのは、こうした経験が根底にあるからかもしれない。

 

 

 

デジタル写真の場合は、暗室ではなくパソコンの画像ソフトで仕上げることになる。何年使っても上手に操れず、情けない。白黒の表現は難しい、に尽きる。パソコンの扱いはさらに。

 

白黒の「黒」は「玄(げん)」と同義語だが、中国古代では「奥深い」といった意味としても使われた。のちに日本で定着した仏教では「玄関」など「奥深い道へ踏み入る関門」をあらわすような用語となり「幽玄」「玄人」などの言葉の由来にもなっている。

 

美術家の篠田桃紅は「玄というのはまた、一筆の濃墨で書くのではなく、淡い墨を重ねて刻していき、真っ黒の一歩手前で控えた色」と書いた。完全な「黒」を超えたところにある「黒のまた黒」でありながら、真っ黒、漆黒とは異なる。「黒」の手前にある黒だけに「動きを残す黒」になる、という意味だろうか。

 

私たち日本人が、白黒の世界に奥行きを感じ取れるのは「玄」が単に伝統色というだけではなく、色を超えた宗教的ともいえる世界をそこに感じ取れるから、と考えたほうがよさそうである。

 

 

写真/青森県立美術館HPより
 

「小島一郎写真集成」 インスクリプト

黒を超えて「玄」を求め、浮き彫りにされた世界が、写真を超越した画風を醸している。作品に動きや奥行きが感じられるのは、篠田桃紅が述べるように「玄」ならではの運動性を極めようとしているからだ。カメラやレンズの優劣など問題ではなかった。津軽の風土とそこに生きる人々に敬意を払い、共感し、心揺さぶられ、自らの心象風景に重ねつつ、誠実な暗室作業を行った。故郷の生活者の視座を軸に据えた撮影者は、昭和39年、39歳の若さで急逝する。商業写真がはびこるこの日本で、もっと注目されてよいと思う。

 

 

 

 

 

「はる」という名のネコ。

前の前の年の秋頃から、庭先に通ってきた野良ネコがいた。週に何度か縁側で休むようになった。撫でてやると、体をすり寄せてくる。冬になっても、週に数回、やってきて、その回数は少しずつ増えていった。

 

雪の日は、雪を漕いでやってくる。朝、窓の外を見ると、足跡があるので、すぐにわかった。深夜は、どこかの軒下で雪と寒さをしのいでいたのだろう。明るくなると、窓の外でじっとこちらを見つめる彼がいた。その都度目を見ながら、あなたは、ここでは飼えないからね、と言い聞かせてきた。

 

秋になると、綿毛みたいなふさふさの白い毛になった。冬が過ぎ、3月。毛はうす汚れて灰色に変わり、ある日から突然、足元がふらつくようになってきた。野良同士のケンカに負けて顔中血だらけになってくることもあった。このままだと、夏まで生きられない。そう思った。

 

役所や愛護団体、ネコカフェなどに連絡して対処方を聞いてみた。まずは保護です。病院で必要な検査をしワクチンを打ち、十分に人慣れしてから、その段階で受け入れるかどうかを検討しましょう。どこも、おおよそ、そんな答えであった。その際にはお願いしたいと、いくつかのルートを確保しておいた。

 

ホームセンターで餌の缶詰、かりかりごはん、キャリーケース、トイレやトイレシート、大型ケージなどを購入。後日、縁側にちょこんと座ったところを抱き上げ、キャリーケースに突っ込み、動物病院に走った。ケースの中の彼は、全身を小刻みに震わせ、鳴き声ひとつ出すことはなかった。

 

ノミやダニを駆除する薬剤を首のあたりに塗り込み、血液検査をし、ワクチンを注射していただいた。検査の結果は、免疫不全となる不治の病だった。野良ネコの約3割は罹患しており、何年も発症しない場合もあるが、発症した後の寿命は長くないという。先生の申し訳なさそうな表情を見て、こちらも申し訳ない気持ちになった。

 

薬剤が全身に効くまでに1週間。この間、ケージから出さずに餌を与え、トイレ掃除に徹する。慣れているネコであれば自分でシャンプーもできるが、一度、嚙まれたこともあったので、少し怖い。

 

病院でもシャンプーは受け付けてくれる。しかし、予約は1カ月先まで一杯。市内のペットショップやトリミングサロンにシャンプーをお願いできるか尋ねたが、野良で保護したばかりと話すと、全て断られた。

 

あきらめかけていた矢先、やってみましょう、と引き受けてくれたのが、A町にある小さなトリミングサロンだった。予約をして翌日、お店に向かう。私も先日、保護したばかりです、という受付のお姉さんとやさしいお兄さんが見事、全身をきれいにしてくれた。

 

自分も家族も、少し苦手なあの人だって、いつかは、この世から消えていなくなる。それだけは確かなことだ。にもかかわらず、生命の終わりを宣告され「死」が見え始めると悲しい気持ちになるのは、なぜなのだろう。いつかは死んでしまうのに、生まれてくる意味、生きていく意味とはなんなのだろう。そんなばかみたいなことばかり、考えてしまう。

 

生きることのゆたかさは、何もかも、いつかは終わってしまうという真実を、どれだけ受け止めているかの量に比例する。そうした現実に、何もできないという無力さとも。

 

あの日から、3年が過ぎた。春に一緒に暮らすことになったので、名前は「はる」。毎日を大切に生きていきましょう。

 

 

雪が降る前から、週に何度かやってきて、縁側の窓ガラス顔をくっつけて休んでいた。鼻と頭にひっかき傷。このときはまだ、からだががっちりして、元気そうに見えた。

 

 

冬を越し、保護した日は、すでによれよれの状態だった。このままでは死んでしまうと判断した。ケージなど、ネコを飼うために必要なものを購入。保護したあと、動物病院に走って必要な検査をした。免疫不全となる不治の病だった。もう少し早く、保護すればよかった。

 

 

受診して10日後、市内のお店でシャンプーもしてもらった。あちこちお店を当たったが野良、というだけで断られた。お店のおかげで飼いネコみたいにきれいになった。おびえながらケージから出た日。

 

今日も元気。ずっと一緒に、元気に暮らしましょうね。

 

 

 

 

 

 

 

任せる。

父が亡くなって30年以上が過ぎた。実家は北海道の小さな町。母にはずっと一人暮らしをさせてきた。申しわけないと思いつつ、年に一、二度しか帰省してこなかった。

帰るたび、母子二人で行う作業があった。作業といっても、小さな金庫を開け、通帳や生命保険の証書の中身を確認するだけである。


父が残した財産など皆無に等しく、母はわずかな年金をコツコツ積み立て、質素な生活を続けてきた。自分がボケてしまって、おかしなことにお金を使っていないか。証書の更新を忘れていないか。なくした通帳はないか。5分もあれば終わる作業が、いつの間にか、母と私をつなぐ絆となっていた。

金庫には常に100万円の現金が入っていた。チラシに包んで、粗末な輪ゴムで束ねてあった。自分が倒れたら、預金の引き出しなどで苦労をかける。おまえたちの交通費もかかる。葬儀を含んでも、自分はこれでおさまる範囲で十分である。何かのときに、これを使うといい。「お前に任せる」が口癖だった。
 
 
認知症が進んだのは、その頃からだ。冷蔵庫に同じ種類の調味料が10本、15本。カップ麺が棚に50個。あれだけきれい好きだったのに玄関やトイレなどに掃除の痕跡が見られない。銀行で同じ金額を出し入れする、そうした奇妙な行動が目立つようになった。通帳を確認する際、人ごとみたいに二人で驚いたりした。
 
地元の役所で要介護認定を受けた。見守りを兼ねて、週に1度、ヘルパーさんを手配したが、その後「知らない人が来ている」と頻繁に電話がかかってくるようになった。

我が家への転居を勧めると「任せる」と応じてくれた。土地と家の処分。狭い土地と小さな平屋である。札幌に住む妹が何度か来て、荷物の整理をしてくれた。処分を徹底し、我が家へと運ぶ荷物は、宅配便の単身用パック一つにまとまった。

土地は、近所のAさんに譲渡することにした。私たちが1円も受け取らない代わり、Aさんは解体・整地費用の約80万円を業者に支払う。解体すると市から20万円の補助金が出る。Aさんは60万円の出費で済む。

田舎にある実家は「住まない・売れない・貸せない」の三重苦といわれる。自分たちがこんな現実に向き合うことになるとは思わなかった。


我が家に転居してきた当初はデイサービスとショートステイを利用しながら同居を続け、その後、近くのグループホームに入居することができた。母との同居は9カ月でピリオドを打つことになる。

もう一緒に住むことがないのだなと考えると、人生で親子がともに過ごす時間の短さに改めて驚いたことを覚えている。入居を決める前の「任せる」の一言が救いであった。


信用と信頼は、似ているようで、とても違う。預金の残高や会社の肩書など、条件を担保に人を信じるのが信用。一方、残高がゼロでも、日頃どんな行動をしているかも問うことなく、条件なしで相手を信じようとするのが信頼である。


インフルエンザに始まり、新型コロナのまん延で一、二度の面会しかできないまま、昨春、母は静かに旅立っていった。施設では職員に、病院では医師や看護師に様子を尋ねると毎回「変わりません」という言葉が返ってきた。しかし、実際、変わらないことなど、何一つなかった。

記憶が刻々と薄れていくなかでも、力を振り絞り、我が子を信じようとする姿があった。それはときに「お前の生き方はそれでよいのか」との鋭い問いに変わって、私に迫った。

肉体が枯れ、やがて記憶がマーブル模様になって失せるとしても、私は母に追想の花を重ねて眺めることができる。母は母で、記憶の断片と手をつなぎ、彼の地の旅を続けているだろう。
 
大好きだったルンバを踊っているかしら。そんなことを、まじめに考えている自分にあきれてしまう。

 
 

かなしいことがあったら。

〇日

一時はこの仕事、ほんとうに完成できるのだろうかと考え、眠れぬ日々が続いた。しかし、不安は杞憂に終わる。昔、「杞の国」に住む男が、天が崩れたら自分の住む場所がなくなってしまう、と心配した中国の故事から生まれた言葉とされる「杞憂」。

 

玄関先でA先生と奥様に見送られ、外に出たときの空の高さ。どんなことでも必ず、過ぎ去るのだ。

 

生きている間に、あとどれくらい、仕事に携われるだろう。そう考えると、人生は自分が思ってきたよりも、ずっと短い。歳を重ねた証拠なのだろう。

 

年齢の「齢=よわい」には「世延い=よはい」に源を発するという説がある。「世」は空間、時間などの「間」を表す言葉である。「世間を歩く」といわず「渡る」と表現するのも、平らなところではなく「間」と「間」を移動するから。「延う=はう」は文字通り、延びる。つまり、歳を重ねるということは、時間的、空間的なひろがりを意味する言葉とも解釈できる。

 

老人のことを「齢人=よはいびと」ともいう。このいのちが尽きるまで、ひろがっていかなければならないようだ。

 

 

〇日 

灰谷健次郎「太陽の子」読み終える。3度は読んでいるはずなのに、またいくつも言葉を拾い、メモに書く。

日本人が目を背けてきた歴史、一つの生や死がどれほど多くの人たちの涙の果てにあることなのか。沖縄出身の両親をもつ少女・ふうちゃんが、悲しい歴史を背負った大人たちの間で、たくましく成長していく。ある場面で、尊敬する詩人の一人、山之口獏の詩が紹介されていた。

 

座蒲団//

 

土の上には床がある

床の上には畳がある

畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という

 

楽の上にはなんにもないのであろうか

どうぞおしきなさいとすすめられて

楽に座ったさびしさよ

 

土の世界をはるかに見下ろしているように

住み馴れぬ世界がさびしいよ

=詩集『思辨の苑』1938年=

 

 戦前までの沖縄では、畳すら敷けない家が少なくなかった。座布団をすすめられ、そこに座すことの快楽を自省する精神のゆたかさ。日本人の家のあり方、人としての生き方を顧みる詩人の鋭い視座。

 

何度読んでも、主人公・ふうちゃんのまっすぐな眼差しに胸を打たれる。昔、NHKでドラマにもなったが、同作品に先に出合ったのが、読むきっかけとなった。

 

「太陽の子」灰谷健次郎

 

「不幸やかなしみは、それがひとつずつ離れてあるものではなく、つぎつぎつながっているものだ」。主人公のふうちゃんの心のうちをあらわした言葉である。

 

かなしいことがあったら

ひとをうらまないこと

かなしいことがあったら

しばらくひとりぼっちになること

かなしいことがあったら

ひっそりと考えること

 

ふうちゃんの机の前には、こんな言葉が紙に書いて貼ってある。自分もまねて書いてある。恥ずかしいので、机の前ではなく、ひきだしの中にメモしてしまってある。

 

 

寄る辺なき魂の祈り。

1970年代に入る前から、水俣病は大きな問題となっていて、ベトナム戦争と同じくらい、連日ニュースで取り上げられていた。四日市、川崎、水俣イコール公害で、煙だらけといった印象しかなかった。

 

水俣の問題は、煙ではなく、海だった。最初に現実の一端にふれたのはユージン・スミスの写真である。どこで見たのかは覚えていない。いまでも、彼の写真を見ると、当時と全く同じ痛みが胸を覆う。

 

それからしばらく経って買ったのが石牟礼道子さんの本であった。「苦界浄土」。祈りのようなタイトルに、惹かれた。はじめは、左派系の市民団体の誰かが書いたもの程度にしか思っていなかった。しかし、本を開くとイデオロギーなど微塵もなく、詩が見え歌が聞こえてくる。生身の言葉のうしろに、美しい自然と地獄が見えた。

 

1970年「苦界浄土」は第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるが、石牟礼さんは受賞を辞退する。彼女の精神には、水俣に生きる人たちこそが本来の語り手であり、自分は彼らの言葉を拾って翻する者にすぎないという謙虚さ、揺るぎない自覚があった。当時の雑誌に、こんな文を寄せている。

 

きよ子は手も足もよじれてきて

手足が縄のようによじれて

わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。

それがあなた、死にました年でしたか

桜の花の散ります頃に。

私がちょっと留守をしとりましたら、

縁側に転げ出て、

地面に這うとりましたですよ。

=略=

「おかしゃん、はなば」ちゅて、

花びらば指すとですもんね。

花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。

(「花の文を――寄る辺なき魂の祈り」中央公論

 

 

本棚にあった「苦界浄土」も「椿の海の記」も、30代になってから手放した。その他の資料と共に、クリーンセンターで処分したのである。子どもを授かり、自営の不安定な経済環境に身を置く自分にとって、水俣に生きる人の言葉をすくい上げ、美しい言葉に置き換え、発信し続ける石牟礼さんに負い目を感じた。

 

大きくなること、ゆたかになることをひそかに望んでいた自分には、本の存在そのものが足かせにも思えた。近くに置くだけで、欲にまみれた自分を見透かされているようでつらくなっていった。

 

活字を追って物語を読み込むのは、著者の本望ではない。石牟礼さんが望んだのは水俣に生きて死んだ語り部たちの声に、静かに、深く耳を澄ますこと。そして、読み手が自らを誠実に振り返り、日本の明日にまで眼差しを向けることであったのだと、思っている。

 

 

苦海浄土石牟礼道子 講談社文庫

大きなものに流され、押し潰されそうになったとき。生きることにやさぐれ、投げやりになりそうなとき───。背筋を整え、息を鎮め、本を開く。ページは限りなく重いが、搾り出された活字と行間に、自分のいまを映す。捨てては購入し、購入しては再読を繰り返している。

 

 

 

 

書くことの効用。

〇日

パソコンにメモとして記録した時期もあったが、いつの間にか手書きのメモに戻っている。3号というA5のノートに、気になった言葉を書き写す。目を病んで、新聞の小さな文字が読めなくなって、手書きのメモも滅ってきた。  

 

書くことで(RAS/Reticular Activating System=脳幹網様体賦活系)が刺激される。「見逃すな」という信号が送られ、集中力が高まり、記憶が長 く保存されるのだそうだ。

 

ペンを持ち、紙に書く作業は、パソコンのキーボードに指を這わせるのとは確かに違う。呆けた脳みそでも、内容が定着しやすく感じる。この作業は、読書感想文を書くことに似ている。読む→気付く、という流れは「見逃すな」という信号の連続であり「自己洞察」の体現であるかもしれない。

 

ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、潜在意識によって人の行動が変わることを「プライミング効果」と呼んだ。悲しく暗い言葉を多く耳にすると、気分が沈む。本を読んだり、文字を書いたり、何かを学ぼうとする姿勢は効果がプラスに働き、思いがけない気付きやメッセージを受け取ることができるという。いわれてみれば、ごく当たり前の効果。気をつけようと思う。

 

 

〇日

言葉のメモ。

//本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。

//建物は日によって見え方が違う。何度訪れても発見がある。1冊の本を何度でも読むのと同じだ。読むたびに中身が変わっている。そうして、自分が成長しているか確認できる(サグラダ・ファミリア教会の建設に日本人として参加している彫刻家・外尾悦郎さん)。

 

//完成されている以上の「未完の力」がある。読者が作品と出合って、完成に向かっていく。

//人間が本当に何かに向かうときは、未完成であることを承知で始める。未完で終わるほかないものに向き合える者だけが、表現できるものがある。「深い河」(遠藤周作)は「答え」を手放して、自分が「問い」になっていく小説(若松英輔さん)。

 

 

春を感じる日が増えた。空が低く、淡い。 同じ空はないんだな。誰かが書いていた。「人は初めてを覚えていても、二度目は記憶しない」。啄木のうたに、こんなのがあった。「この四五年 空を仰ぐといふことが 一度もなかりき かうもなるものか」。

 

 

 

 

山頭火の句集、随筆は手の届くところに置いてある。気の向いたとき、コーヒーをすするかのように、気軽にページを開く。「…終日歩いた、ただ歩いた、雨の中を泥土の中を歩きつづけた、歩かずにはいられないのだ、じっとしていては死ぬる外ないのだ」。その日暮らしの行乞(ぎょうこつ 僧侶が乞食=こつじき=をして歩くこと)で得たなけなしの金で安宿を探し、酒を求め、また歩く。その姿は放浪、漂泊の俳人というよりは世捨て人のように思えてくる。

母の自死というトラウマから立ち直れず行き着いた人生。ほんの数センチ、道をはずせば同じ道をたどったかもしれない自分を重ねずにはいられない。などといってしまえば、まだ読みが浅いね、といわれるかしら。制限だらけの昨今、遥か向こう側を求めるのではなく、目の前の「幸せ」を大切に歩むことで救われる人生もある、と信じたい。

 

 

 

 

 

さじ加減。

「薪を2、3本持ってこい」と母にいわれ、物置から薪を3本持っていくと「バカモノ」と叱られた。子どもの頃の話である。「タバコを2、3箱買ってこい」と父に頼まれ、家の前にあるお店からタバコを2箱買ってきたときにも「バカモノ」と叱られる。2、3本というのは「4本とか5本のことだ」と彼らはいうのであった。

 

中学のときの陸上部では、いつも前半で力尽きるダメランナーだった。テストがあると、20日も前から勉強を始め、前日にはほとんど忘れてしまう。母の日の1週間も前に、なけなしの貯金で買ったチョコレートを、当日の朝、我慢ができずに食べてしまう。

 

「加減」がわからぬまま、大人になった。いまでも、元気になるといわれれば、何本もの栄養ドリンクを買う、飲む。約束の時間には遅れたことはない。現場には10分前には着いている。待ち人が5分遅れてくれば、15分待つことになる。そんな待ちぼうけはおそらく数百では済まない数である。遅刻をしてきて「きちんと時間を守る人なんだねえ」と感心をするその人に、感心してしまう。仕事の締め切りが3日後といわれれば、前日には必ず仕事を片付ける。貸した金が払えないといわれれば、そうですかと諦める。

 

つくづく「加減」は難しい。体の加減 、力加減、手加減、うつむき加減、ばかさ加減、ゆで加減、湯加減、火加減、さじ加減――みーんな曖昧だ。そもそも加えて減らすのだから差し引きはゼロのはず。そのゼロを「ちょうどよい」というのだとしたら、まどろっこしい。「い・い・加減」は、「無責任」なのか「ちょうどよい」の意味なのか、この判断も状況による。

 

仕事の「さじ加減」がわからぬまま、いつだって、力尽きてしまう。忙しい日は、終日、飲まず食わずで平気である。誰も代わってくれないのだから、終わるまでやる。それだけのことだ。

 

ちなみに「さじ加減」の「さじ」は調理の「さじ」ではなく「薬さじ」のことをいう。調理用語ではなく、医療用語。わずかな誤差でも、ときに生命にかかわることもある、と教えているのだろう。

 

先輩のAさんからの電話。

「もうちょっと手を抜いて生きられないの?」

「これ以上手を抜いたら、食えなくなるのが不安です」

「物事には、加減というものがあるんだから」

 

いったい「加減」とは、どう判断したらよいのか、そこらへんからもう、分からない。グレーゾーンのない「正しさ」を証明するための諍(いさか)いで、多くの人が死んでいった。「正しい」神さまはどっちかの論争で、世界中で争いが繰り返されている。だとしたら「正しい」ことより「い・い・加減」を求めたほうが、世界平和のためになるのじゃないか、とAさんにいったら「だから、君はだめなんだよ」といわれそうなので、やめた。

 

 

 

 

 

 

 

沖縄。

■Koza (Okinawa City)

 
 

■Kadena Town

 

■Shuri Castle(Naha city)

 

■Shurikinjo Stone Pavement(Naha city)

 

■Market(Naha city)

 

■Kudaka Island

 

 

しばらく、沖縄に滞在した。仕事の合間、少し足を延ばして、那覇周辺の町や村を歩いた。本島にはモノレール以外、鉄道がない。路線バス、町村民向けの「コミュニティーバス」などを利用したが、どの町でもバスが時刻表通りに走ることはなかった。ひたすらに待つ、乗る、歩くを早朝から夕刻まで繰り返す。だからこそ、感じ取れる時間の流れがあり、見えてくるものがあったかもしれない。

 

南の潮風とともに、まだ神ながらのにおいが吹き流れているこの天地では、ふしぎに日本文化の過去、そのノスタルジアがよみがえってくる。感傷ではない。ここを支点として現代日本をながめかえす貴重な鏡なのである。(略)つまり外部に位置する切実なポイントから、逆に日本文化を浮かび上がらせて行くのだ。

 

と書いたのは岡本太郎であった(「沖縄文化論」中公文庫)。バスを乗り継ぎ、フェリーに乗って、久高島にも行くことができた。琉球開びゃく始祖・アマミキヨが降り立った島として、琉球の神話や神事が息づく島であり、かつてはよそ者が入ることさえ許されなかった神の島である。

 

島全体が聖域とされ、立ち入り禁止の御嶽(うたき)や拝所(うがんじゅ)、遊泳禁止の浜が点在する。イザイホーなどの祭祀場があるフボー御嶽は、入り口に「最高の聖域です。何人たりとも出入りを禁じます」と書かれた看板が設置されている。資料によれば、御嶽には鳥居はおろかご神体もなく、小さな香炉が置かれているくらいで、何もない。この御嶽で、あの世、もしくは神の世界と交信することは「ノロ」と呼ばれる霊力を持つ女にしか許されていない。

 

風と波と鳥のさえずりのほか、聞こえてくる音はない。時折、すれ違う島の方々と交わすあいさつも、つぶやきのようだ。アダンの樹木、白い小道の向こうにセルリアンブルーの海があり、林の奥に御嶽の色濃い気配がある。固い石垣と光る白砂、赤い花と枯れかかった樹木、有と無、光と影、生と死、人と神とが無言のまま共鳴し合う。一粒の砂さえ、島から持ち帰ることは禁止されている。言い換えれば、花、石、木の枝、一粒の砂、島の全ての存在が神とつながる媒体ということもできる。

 

天に向かって伸びる荘厳な教会や古い神社仏閣、ピラミッドやパルテノン神殿、タジマハールなどの巨大建築に圧倒され感動もしてきた。が、無条件、無防備なまでにかたちのない聖地から伝わる波動は、それらに勝るほどに強く迫り、魂を揺さぶる。神と呼ばれる存在、神の世界があるのだとしたら、それらは「かたち」の向こう側にあるのではなく、自分にまとわりつくかのような身近な存在であることを肌で感じ取ることができる。

 

こうした自然観、人間観、宗教観を抱いてきた沖縄の人たちが、国家権力のみならず、アメリカにまで強制的に支配され続けてきた歴史と現在を「現代日本をながめかえす貴重な鏡」として考え続けたい、とも誓った旅であった。