言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

任せる。

父が亡くなって30年以上が過ぎた。実家は北海道の小さな町。母にはずっと一人暮らしをさせてきた。申しわけないと思いつつ、年に一、二度しか帰省してこなかった。

帰るたび、母子二人で行う作業があった。作業といっても、小さな金庫を開け、通帳や生命保険の証書の中身を確認するだけである。


父が残した財産など皆無に等しく、母はわずかな年金をコツコツ積み立て、質素な生活を続けてきた。自分がボケてしまって、おかしなことにお金を使っていないか。証書の更新を忘れていないか。なくした通帳はないか。5分もあれば終わる作業が、いつの間にか、母と私をつなぐ絆となっていた。

金庫には常に100万円の現金が入っていた。チラシに包んで、粗末な輪ゴムで束ねてあった。自分が倒れたら、預金の引き出しなどで苦労をかける。おまえたちの交通費もかかる。葬儀を含んでも、自分はこれでおさまる範囲で十分である。何かのときに、これを使うといい。「お前に任せる」が口癖だった。
 
 
認知症が進んだのは、その頃からだ。冷蔵庫に同じ種類の調味料が10本、15本。カップ麺が棚に50個。あれだけきれい好きだったのに玄関やトイレなどに掃除の痕跡が見られない。銀行で同じ金額を出し入れする、そうした奇妙な行動が目立つようになった。通帳を確認する際、人ごとみたいに二人で驚いたりした。
 
地元の役所で要介護認定を受けた。見守りを兼ねて、週に1度、ヘルパーさんを手配したが、その後「知らない人が来ている」と頻繁に電話がかかってくるようになった。

我が家への転居を勧めると「任せる」と応じてくれた。土地と家の処分。狭い土地と小さな平屋である。札幌に住む妹が何度か来て、荷物の整理をしてくれた。処分を徹底し、我が家へと運ぶ荷物は、宅配便の単身用パック一つにまとまった。

土地は、近所のAさんに譲渡することにした。私たちが1円も受け取らない代わり、Aさんは解体・整地費用の約80万円を業者に支払う。解体すると市から20万円の補助金が出る。Aさんは60万円の出費で済む。

田舎にある実家は「住まない・売れない・貸せない」の三重苦といわれる。自分たちがこんな現実に向き合うことになるとは思わなかった。


我が家に転居してきた当初はデイサービスとショートステイを利用しながら同居を続け、その後、近くのグループホームに入居することができた。母との同居は9カ月でピリオドを打つことになる。

もう一緒に住むことがないのだなと考えると、人生で親子がともに過ごす時間の短さに改めて驚いたことを覚えている。入居を決める前の「任せる」の一言が救いであった。


信用と信頼は、似ているようで、とても違う。預金の残高や会社の肩書など、条件を担保に人を信じるのが信用。一方、残高がゼロでも、日頃どんな行動をしているかも問うことなく、条件なしで相手を信じようとするのが信頼である。


インフルエンザに始まり、新型コロナのまん延で一、二度の面会しかできないまま、昨春、母は静かに旅立っていった。施設では職員に、病院では医師や看護師に様子を尋ねると毎回「変わりません」という言葉が返ってきた。しかし、実際、変わらないことなど、何一つなかった。

記憶が刻々と薄れていくなかでも、力を振り絞り、我が子を信じようとする姿があった。それはときに「お前の生き方はそれでよいのか」との鋭い問いに変わって、私に迫った。

肉体が枯れ、やがて記憶がマーブル模様になって失せるとしても、私は母に追想の花を重ねて眺めることができる。母は母で、記憶の断片と手をつなぎ、彼の地の旅を続けているだろう。
 
大好きだったルンバを踊っているかしら。そんなことを、まじめに考えている自分にあきれてしまう。