言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

さじ加減。

「薪を2、3本持ってこい」と母にいわれ、物置から薪を3本持っていくと「バカモノ」と叱られた。子どもの頃の話である。「タバコを2、3箱買ってこい」と父に頼まれ、家の前にあるお店からタバコを2箱買ってきたときにも「バカモノ」と叱られる。2、3本というのは「4本とか5本のことだ」と彼らはいうのであった。

 

中学のときの陸上部では、いつも前半で力尽きるダメランナーだった。テストがあると、20日も前から勉強を始め、前日にはほとんど忘れてしまう。母の日の1週間も前に、なけなしの貯金で買ったチョコレートを、当日の朝、我慢ができずに食べてしまう。

 

「加減」がわからぬまま、大人になった。いまでも、元気になるといわれれば、何本もの栄養ドリンクを買う、飲む。約束の時間には遅れたことはない。現場には10分前には着いている。待ち人が5分遅れてくれば、15分待つことになる。そんな待ちぼうけはおそらく数百では済まない数である。遅刻をしてきて「きちんと時間を守る人なんだねえ」と感心をするその人に、感心してしまう。仕事の締め切りが3日後といわれれば、前日には必ず仕事を片付ける。貸した金が払えないといわれれば、そうですかと諦める。

 

つくづく「加減」は難しい。体の加減 、力加減、手加減、うつむき加減、ばかさ加減、ゆで加減、湯加減、火加減、さじ加減――みーんな曖昧だ。そもそも加えて減らすのだから差し引きはゼロのはず。そのゼロを「ちょうどよい」というのだとしたら、まどろっこしい。「い・い・加減」は、「無責任」なのか「ちょうどよい」の意味なのか、この判断も状況による。

 

仕事の「さじ加減」がわからぬまま、いつだって、力尽きてしまう。忙しい日は、終日、飲まず食わずで平気である。誰も代わってくれないのだから、終わるまでやる。それだけのことだ。

 

ちなみに「さじ加減」の「さじ」は調理の「さじ」ではなく「薬さじ」のことをいう。調理用語ではなく、医療用語。わずかな誤差でも、ときに生命にかかわることもある、と教えているのだろう。

 

先輩のAさんからの電話。

「もうちょっと手を抜いて生きられないの?」

「これ以上手を抜いたら、食えなくなるのが不安です」

「物事には、加減というものがあるんだから」

 

いったい「加減」とは、どう判断したらよいのか、そこらへんからもう、分からない。グレーゾーンのない「正しさ」を証明するための諍(いさか)いで、多くの人が死んでいった。「正しい」神さまはどっちかの論争で、世界中で争いが繰り返されている。だとしたら「正しい」ことより「い・い・加減」を求めたほうが、世界平和のためになるのじゃないか、とAさんにいったら「だから、君はだめなんだよ」といわれそうなので、やめた。