言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

じゃあね。

新千歳空港からの電車を札幌で乗り換え、Aという町まではかれこれ90分。そこから、実家のあるB町まではわずか9キロだが、ここからの交通の便が極端に悪い。バス、電車ともに1時間に1本。待ち時間なしで、空港からA駅まで来ても、いつも駅で1時間ほど時間を潰すことになる。

 

A駅からバスに乗って実家近くのバス停に着くと母の顔が見えた。母が元気だったころの話である。

 

おおよそ、家に着く時間は知らせておいたので、そこから逆算して、このバスを割り出したに違いない、そう思った。しかし、前のドアからバスを降りた途端、母は後方にある乗車口からそそくさとバスに乗り込んでいった。「ちょ、ちょっと!」とバスの外から声をかけると、車内で座席についた母が、驚いた顔をしている。仕方なく、降りたバスにまた飛び乗った。

 

振り返れば、そのころから、認知症の症状が強くなっていた。本人は「なんで、帰ってきたの」と、いたって落ち着いている。車内の乗客の視線が一斉に私たちに注がれているのも気にしていない。「どこに行くの」と尋ねると「生協」という。まあいいかとあきらめて、そのまま一緒に買い物をして家に帰ってきたことがあった。

 

町は行くたびに、廃れていた。商店街のシャッターは大半が閉まっており、家の近所のゲンおじさんやノッポのかあさんの家、はじめちゃんの家も、いまはもう誰も住んでいない。

 

家に着いてすぐ、向かいのタザワさんの家に土産を届ける。母の見守りをお願いする意味でも、長らく、そうしてご挨拶をしてきたのだった。玄関のチャイムを押すと、おばさんが出てきて「また年とったねえ。ハッハッハ」と笑う。その明るさに、いつも助けられてきた。

 

炭鉱の景気のいい時代は、おじさんと2人で小さな店をやっていた。小学1年のときだった。誰も店先にいないのを見計らって、ガムを盗んで、あっけらかんと家に帰ったことがあった。テレビのCMで見た、新発売のガムがほくてたまらなかった。

 

タザワのおばちゃんは、すぐに気づいたらしく、徒歩7秒くらいで到着する私の家に来て「ダイちゃん、ガム、盗っていったでしょう」といって玄関の戸を開けた。私は上がり框にペタンと座って、ガムをクチャクチャ噛んでいた。おばさんは、そんな私の頭をゲンコで軽く叩いて「黙って盗ったら、だめなんだよ」と笑ったが、私は新発売のガムに感動してばかりいた。洋装店で働いていた母がその日はたまたま家にいた。平謝りに謝ったあげく、おばさんの目の前で、私はもう一発、とびきり痛いゲンコを喰らうことになる。

 

実家に帰った翌日は、いつもバスに乗って、母と二人でお寺に行った。我が家には墓がなく、お寺の骨堂に先祖の位牌も骨も預けている。サハリンで生まれ育った父は、北海道は自分の故郷ではないからと、最後まで墓を建てるのを躊躇った。その長男でもある私は本州にわたっている。私もまた、この地は故郷ではなく、ここに墓を建てるのを躊躇っている。

 

玄関が北西に向いた家の日陰には、4月の末まで雪が残る。周囲の新しい家に囲まれた古い平屋の家が、黒ずんだ雪の塊に溶け込むように見えるのが寂しくもあった。そんな家も、認知症の母を転居させた翌月には解体し、整地を終えた。親戚や知人たちに「思い切りがよすぎる」といわれたが、思い出は自分の胸だけに刻むと決めていた。

 

 

お寺から家に戻ると、母はいつも同じことをいった。「で、いつまでいるんだ」「明日、札幌に寄って、あさって家に戻る」「そうか」。実家に滞在するのはほとんどが2日程度。この家も、この町も、すでに私の生きる場所でないことだけは、確かなことだった。

 

 

忘れないという行為は「記憶する」という意味だけではなく「これでよかったのか」と、自らに問い続ける行為でもある。おそらく私は、これからもずっと、前を向きつつも後悔を繰り返し、揺れながら、生き場所と死に場所を探していくのではないかと思う。

実家をあとにするときはいつも、私から両の手を差し出し、母の手を握った。「じゃあね」というと今度は母が「ああ」といった。こんな短い言葉の往還で、私たちは別離を繰り返してきたのだった。

 

昨春、母の旅立ちの瞬間は、身体にふれることは許されなかった。まだ、コロナの最中だった。火葬の際に「楽しかったね、母さん」が、母にかけた最後の言葉となった。もっと気の利いたことをいいたかったが、胸がずんと重くなって、ほかの言葉は出てこなかった。

 

1年になるんだね、母さん。また、必ず、どこかのバス停で待っていてください。じゃあね――。誰にも気づかれぬよう、そうつぶやくと「ああ」という気のない返事が聞こえてくる気がする。