言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

小樽。

週末、小樽を歩いた。1年ぶりのことだ。今回も、天気に恵まれた。これまで10回以上訪れているが、不思議なことに、悪天候だったことはない。

 

明治から大正期、北海道における経済・文化・商業の中心地として栄え「北のウォール街」と呼ばれたこともあった。そして、小樽といえば、運河である。70年代後半、保存を訴える市民団体と行政側が対立。当時は札幌で働いていたので、埋め立て前の写真を撮っておこうと何度も足を運んだ。記録したポジフィルムは、いまも大量に保管してある。

 

あの頃は、周囲にドブの臭いが漂い、いまにも崩れそうな古い建物がひしめき合っていた。幅40mの運河の半分の埋め立てが決まり、片側3車線の道路をつくる工事が実施されたのは1984年秋のことである。

 

小樽は終戦直後、サハリンから引き揚げてきた父の家族が暮らした街でもある。1945年8月11日、ソ連樺太に侵攻し、15日の終戦後も攻撃は続いた。20日には樺太西海岸の真岡町(現ホルムスク)にソ連軍が上陸。この真岡町が、父が生まれ育った故郷であった。

 

サハリン南部(南樺太)には40万人以上の日本人が居住していたが、北海道方面への緊急疎開が行われ、10万人が島外に避難。22日には小樽などに向かう避難船3隻がソ連軍に攻撃され、約1700人が死亡した(三船殉難事件)。

 

犠牲者の大半は女性や子ども、老人だった。陸上でも2千人以上の民間人が犠牲になり、集団自決が相次いだ。真岡郵便局では、女性の電話交換手12人のうち10人が局内で自決を図り、17歳から24歳までの9人の若い女性が亡くなっている。この9人の霊を慰めるために建てられたのが、稚内にある「九人の乙女の碑」である。交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフには、彼女たちの最後の言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の文字が刻まれている。あの瞬間も、父たち家族は同じ街で同じ時間にいたことになる。

 

引き揚げ船にも容赦ない攻撃が加えられた。生後6カ月だった叔母(父の妹)のA子おばちゃんは、ソ連の狙撃兵が放った銃弾が右の眼球をかすり、失明した。重傷を負った乳飲み子を抱え、急ごしらえの引き揚げ船で函館や小樽をめざした祖父母や子どもたち(叔父や叔母たち)の不安はいかばかりだったか。

 

鉄道員だった父は家族を見送り、一人、技術者としてロシア領となった現地にとどまり仕事をつづけた。家族と再会したのは1948年の函館で、その翌年に小樽に転居している。父がなぜロシア語が堪能だったのか知ったのは、中学生になってからのことだった。

 

漁師をしながら画家としても名を馳せつつあった祖父は、家族を食べさせるために大工となり、祖母は露天商として飴を売り歩いた。家族はその後、旭川を経て、景気が上向いていた空知地方の炭鉱町にたどり着く。

 

 

古びた石造りの倉庫や黒い煙突の伸びた木造の家。山手に向かってなだらかに伸びる幾本もの坂の向こうにそびえる天狗山が、海からの風を真正面から受け止める。こうした地形が風や水、光、そして女までもきれいにするのだと、昔、この地で会った人がいっていた。

 

人が故郷に吸い寄せられるのは、死のいちばん近くにいるはずの自分を忘れさせてくれるからだ。音のない声が396 Hzのソルフェジオ周波数みたいに頭のなかにずっと流れている。清涼な潮風が脊椎を貫き「私たちの魂はここにある」と細胞の隅々にまで問いかけてくる。

 

押し寄せてくる懐かしさは温かいが、生傷みたいに湿っている。私たちはみんな、失われた存在に支えられているのだ。このことを忘れそうになる頃、小樽に呼び寄せられる、そんな気がする。

 

小樽運河。古い倉庫群はいまも博物館やショップ、カフェなどとして使われている。澄み切った空気、透明な光はレンズを通しても感じられる。
 

父の家族が暮らす前からあったはずの石造や木造の建築群。路地裏の静寂の中でふと、時間がぐにゃりと歪む瞬間がある。
 

 

 

ノスタルジックな異国情緒を感じるのは、石造りの建物が多いからだろう。多くは木骨石造(もっこつせきぞう)と呼ばれる構造で、外からは石を重ねたように見えるが、内部を見ると木材の柱や梁の骨組みがある。高い防火性と夏は涼しく冬暖かい特性から倉庫などに適し、壁材となる軟石は小樽や札幌近郊でよく採れた。※2017年に撮影した写真も掲載しています。