言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

読んだ本の記録─── あの人の「眼差し」。

 
 
 
 
三岸節子さんの絵が好きだ。彼女の書く文章も。花の絵が多い。花など育てることも愛でることもしないくせに、この人の「花」が好きだ。
 
花よりもいっそう花らしい、花の生命を生まなくては、花の実態をつかんで、画面に定着しなければ、花の作品は生まれません。
つまり、私の描きたいと念願するところの花は、私じしんのみた、感じた、表現した、私の分身の花です。
この花に永遠を封じ込めたいのです。
生涯自信のもてる一枚の花を描きたいのです。
(六十歳記 1965)
 
1924年三岸好太郎と結婚し、1934年に死別。1954年に息子黄太郎が留学していたフランスに渡り、ともにヨーロッパの各地を巡り作品を残した。1989年に帰国した時はすでに、84歳。
 
白い花や白い風景といいますのは、大変難しいんです。
ごまかしがききません。
念には念を入れて描かなければなりませんね。
(八十四歳談 1989)
 
白い花のような無垢な魂をお持ちの方だった。昔、札幌で働いていたとき、会社の近くに三岸好太郎美術館があった(北1条西5丁目 のちに北海道立近代美術館に隣接して移転)。昼休みを利用するなどして、何度か入ったことがある。が、節子さんの作品に興味を抱いたのは、ずっとあとになってからのこと。好太郎と暮らして味わった孤独、異国で味わった孤独。音もなく爆発するかのような花の生命を描く力は、血を吐くほどの孤独にこそ醸成されたものであったかもしれない。「花こそわが命」にある文章を、ノートに書き写した。出張時によく泊まる札幌のホテルの近くに好太郎の生誕地があったことを、近年初めて知った。
 
 
 
 

「キャパの十字架 」 沢木 耕太郎 (著) 文春文庫

ルポルタージュの心構えは、沢木耕太郎さんから学んだ。写真の心構えは、キャパから。生意気に思われるかもしれないが、事実、そうしてきた数十年であった。「キャパ」はいかにして「キャパ」になったか。最も有名な写真――戦場カメラマン、ロバート・キャパが1936年、スペイン戦争の際に撮影した「崩れ落ちる兵士」は、見事な迫真性がゆえに、長く真贋論争が闘われてきた。真実を求めてスペイン南部の〈現場〉を特定し、その結果、導き出された驚くべき結論とは。実際に彼の地を歩いたのは遠い昔のことになる。


 
 
 


ユージン・スミス ~水俣に捧げた写真家の1100日」
山口由美 (著) 小学館

胎児性水俣病患者の娘を胸に抱く母子の姿をとらえた「入浴する智子と母」を見たとき、身体が震えたことを覚えている。やがて、この一枚は世界中を震撼させた写真集『MINAMATA』に収録され、それを撮った人物を知ってまた驚いた。20世紀を代表する写真界の巨匠、ユージン・スミス(1918-1978)。独特の撮影手法や患者との交流、写真にかける情熱、情の深い人柄など、これまで語られることのなかったユージン・スミスの「水俣」がよみがえる。石牟礼道子さんの作品と並列しつつ、繰り返し読んできた本の中の1冊。
 
 



「血とシャンパン」
アレックス カーショウ (著), Alex Kershaw (原著), 野中 邦子 (翻訳) 角川書店

キャパは誠実、辛辣、気難しいだけのカメラマンではなかった。血の海で生き残った者だけが、シャンパンにありつける――。絶望ゆえに陽気な酒飲みを装い、友を愛し、酒を愛し、女を愛し、人生の歓びを追求した。五つの歴史的戦争をフィルムに収め、ベトナム戦争で地雷に触れて死亡したカメラマンの生涯。この人の作品は多くのカメラマンを戦場へと誘い、また、死の淵へと導いた、と書いたらお叱りを受けるだろうか。いま、自分のいる場所で食えないから、とりあえず戦場にでも行ってみる、といった安易なカメラマンたちが少なくなかった。彼らとは明確な一線を画すべきであると考えている。




「東京人生」 荒木経惟 (著) バジリコ

長らく、この人のことも作品も、好きにはなれなかった。注目するようになったのは、奥さんが亡くなる過程のルポを撮ったあの作品以来。 “天才アラーキー”として過激なヌードを次々と発表するが、女たちが彼の前ではてらいなく肌をあらわにする意味が分かる。仕事に誠実な人は、人に誠実なのだ。「死がどんどん近づいてくるから、生に向かう――老いていくとかいうことより死が濃厚になってきているんだよ」。最近、自分も、そう思う。
 
 




「戦場カメラマン 沢田教一の眼」―青森・ベトナムカンボジア1955-1970 山川出版社

顔が好きだ。青森人らしい、キレのいい、適度に水分を含んだ艶のある眼。ハンサム、いい男なのだ。その男の眼が、世界を撮り続けた。ベトナム戦争に従軍し「安全への逃避」「泥まみれの死」などで、ピューリッツアー賞・キャパ賞を受賞。寺山修司と高校の同級生であったことはあまり知られていない。1970年にカンボジア戦線で銃撃され死亡。この人は、キャパと同じく「人がどのように死んだか」を撮ったのではない。「なぜ、人が、ここで死ななければならなかったのか」を撮った。
 
 
 
 
 
丸木俊さんは、1912年、北海道秩父別の生まれ。1941年に水墨画家の丸木位里と結婚。戦後は代表作《原爆の図》をはじめ《南京大虐殺の図》《アウシュビッツの図》《水俣の図》《沖縄戦の図》など 社会的主題の夫婦共同制作を発表している。この方のプロフィールをあまり知らなかった。とりあえず、手元に置いて眺めている。この機会に真剣に勉強してみたい。
 
 
 
※2か月分のメモ。写真集、画集は高価なので、いったん図書館で手に取り、納得できたものを後日購入している。