1970年代に入る前から、水俣病は大きな問題となっていて、ベトナム戦争と同じくらい、連日ニュースで取り上げられていた。四日市、川崎、水俣イコール公害で、煙だらけといった印象しかなかった。
水俣の問題は、煙ではなく、海だった。最初に現実の一端にふれたのはユージン・スミスの写真である。どこで見たのかは覚えていない。いまでも、彼の写真を見ると、当時と全く同じ痛みが胸を覆う。
それからしばらく経って買ったのが石牟礼道子さんの本であった。「苦界浄土」。祈りのようなタイトルに、惹かれた。はじめは、左派系の市民団体の誰かが書いたもの程度にしか思っていなかった。しかし、本を開くとイデオロギーなど微塵もなく、詩が見え歌が聞こえてくる。生身の言葉のうしろに、美しい自然と地獄が見えた。
1970年「苦界浄土」は第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるが、石牟礼さんは受賞を辞退する。彼女の精神には、水俣に生きる人たちこそが本来の語り手であり、自分は彼らの言葉を拾って翻する者にすぎないという謙虚さ、揺るぎない自覚があった。当時の雑誌に、こんな文を寄せている。
きよ子は手も足もよじれてきて
手足が縄のようによじれて
わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。
それがあなた、死にました年でしたか
桜の花の散ります頃に。
私がちょっと留守をしとりましたら、
縁側に転げ出て、
地面に這うとりましたですよ。
=略=
「おかしゃん、はなば」ちゅて、
花びらば指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
(「花の文を――寄る辺なき魂の祈り」中央公論)
本棚にあった「苦界浄土」も「椿の海の記」も、30代になってから手放した。その他の資料と共に、クリーンセンターで処分したのである。子どもを授かり、自営の不安定な経済環境に身を置く自分にとって、水俣に生きる人の言葉をすくい上げ、美しい言葉に置き換え、発信し続ける石牟礼さんに負い目を感じた。
大きくなること、ゆたかになることをひそかに望んでいた自分には、本の存在そのものが足かせにも思えた。近くに置くだけで、欲にまみれた自分を見透かされているようでつらくなっていった。
活字を追って物語を読み込むのは、著者の本望ではない。石牟礼さんが望んだのは水俣に生きて死んだ語り部たちの声に、静かに、深く耳を澄ますこと。そして、読み手が自らを誠実に振り返り、日本の明日にまで眼差しを向けることであったのだと、思っている。
※
大きなものに流され、押し潰されそうになったとき。生きることにやさぐれ、投げやりになりそうなとき───。背筋を整え、息を鎮め、本を開く。ページは限りなく重いが、搾り出された活字と行間に、自分のいまを映す。捨てては購入し、購入しては再読を繰り返している。