言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

ひとりぼっちこそが。

事務所には毎日のように宅急便が出入りする。こちらから「時間指定」で送ることは滅多にないが、留守のときには、再配の連絡をすることになる。

 

1つの小さな荷物のために同じ道を往復する。ほんとうに気の毒だ。当たり前だが、それが「当たり前」となっている。ときには大きく遠回りをするという非効率の積み重ねで「当たり前」は遂行される。

 

冬は凍結道路や雪道。夏は猛暑。きのう、荷物を届けてくれたドライバーさんは「花粉症がひどくて、雨のほうがありがたい」と笑っていた。再配に「申し訳ありません」というと「これもサービスですから」と言う顔は疲弊しきっている。

 

停電になると、一刻も早い復旧のために保安技術者たちが現場に向かう。雨の日、雪の日。電柱にのぼり高圧電線に触れようとすると、絶縁手袋と電線の間に、青く太い電気の火が走ることがある。電気の火はときに、大人の身体を数メートルも吹き飛ばす。何人もの同僚をこの事故で亡くしたという話を、電力会社の社員に聞いたことがあった。

 

父は鉄道員だった。コンピュータなどない時代のこと。単線の線路に列車を相互に走らせるために手書きで運行のための計図を描く。踏切や駅との連絡を密にし「人力」で日に数十本の列車を通過させる。子どもの頃、駅にいる父に弁当を届けに行くと、ふだんはのんべいで陽気な男たちに、別の顔があることを知った。その男たちの何人かが列車の連結や保線作業で命を落とした。同じ長屋のA子ちゃんのとうさんも、B君のとうさんも線路で死んだ。

 

郵便も新聞も宅急便も届いて当たり前。バスも電車も飛行機も定刻発着が当たり前。リモコンのスイッチを押しさえすれば、テレビが映って当たり前。電気も水道もそこにあって当たり前。

 

事故が発生すると企業や組織に寄せられる非難の電話は数千、数万にのぼるという。有名人の「失言」も同じ。SNSは炎上し、苦情電話は鳴りやまず、これでもかという悪い言霊を使って相手を貶める。これまで、大企業の広告を垂れ流してきたマスコミも、鬼の首でもとったかのような手のひら返しで責任を追及する。

 

会見の中継で、失態に頭を下げる企業幹部に向かって「あんたら、もうええわ、社長を呼んで」と言った記者がいた。この記者たちの給料の大半が、大企業からの広告収入で賄われる。彼らの根底にある人間性の稚拙さは、失言で辞職を余儀なくされたどこかの知事と変わりない。

 

関係者でもない人間が「当たり前」の権利や正義を声高に叫び、過失を一方的に責めたてる。自分にそんな資格があるかどうか。いつも考えてしまう。

 

生活の「当たり前」を支える全ての人たちに、一言でも「ありがとう」と言ったことはあるか。自分が担当記者だったらどう書くか。いつも、自問し続けてきた。

 

誰かがテレビで、こんなことをいっていた。「敬意っていうのはね、敬意を払った相手からしか、返ってこないんじゃないかな」。

 

 


「ひとりぼっち」こそが 最強の生存戦略である」 

名越康文 (著) 夜間飛行(発行)

 

テレビで時々見かける、関西弁丸出しの精神科医。人なつっこい笑顔と分かりやすい解説、的確な文章。「群れから離れ、ひとりぼっちで過ごす。そのときだけ人は孤独から解放される」というパラドクスを理解し、実践できる日本人はどれくらいいるだろう。

 

他人と自分を比べていないと、自分という存在を確認できない。誰かを見下すことは、典型的な「群れ」の思考。

 

・他人の声に頭が占拠されている状態こそが、本当の意味での「孤独」。孤独な人は、愛情を秤にかけて「これだけあげるから、私にこれだけ返して」という駆け引きをしてしまう。

 

・心の隙間を他人に埋めてもらおうとする試みは、必ずと言っていいほど失敗します。

 

群れの外側に立つと、群れの内側の世界観の歪みは、よく見えます。しかし、群れの内側からは、そもそも「群れの外側の世界が存在する」ということすら認識できない。

 

「群れ」の中で生きる人は普段、いろいろな人の意見に振り回されて生きている。でも、ひとりになって心が落ち着くと、自分も周りも活かせるような考えが降りてくる。それを実践できるようになることが「自立」の定義。

 

私たちは「変わる」ことが苦手になったのだと、私は思います。

 

 

互いが互いに同質化することで、群れ全体が均質化していく。役所などは典型的な同質社会だが、日本では大小の企業組織、自由に論を発信できるはずのメディア、医療や福祉、小中高の部活動、学術の世界にいる人間でさえ、自分が生きる組織=群れの内側だけが「世界の全て」と思い込んでいる人が少なくない。自由を望んだはずのフリーランサーの多くも、群れの中の構成員となって、結局は、そこらの組織と同じ枠組みの中で人生を送っている。そんな同業者を、いやというほど多く見てきた。群れの中での自己実現、虚しさから逃れることは難しい、と著者は説く。「自分の認識の壁を乗り越えるということは、心理学的にみて、その人の人生に他では得られない、大きな喜びを与えてくれる体験です」という「ひとりぼっち」論は潔く、日本人の生き方にチクりと、痛く響く。