言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

沖縄。

■Koza (Okinawa City)

 
 

■Kadena Town

 

■Shuri Castle(Naha city)

 

■Shurikinjo Stone Pavement(Naha city)

 

■Market(Naha city)

 

■Kudaka Island

 

 

しばらく、沖縄に滞在した。仕事の合間、少し足を延ばして、那覇周辺の町や村を歩いた。本島にはモノレール以外、鉄道がない。路線バス、町村民向けの「コミュニティーバス」などを利用したが、どの町でもバスが時刻表通りに走ることはなかった。ひたすらに待つ、乗る、歩くを早朝から夕刻まで繰り返す。だからこそ、感じ取れる時間の流れがあり、見えてくるものがあったかもしれない。

 

南の潮風とともに、まだ神ながらのにおいが吹き流れているこの天地では、ふしぎに日本文化の過去、そのノスタルジアがよみがえってくる。感傷ではない。ここを支点として現代日本をながめかえす貴重な鏡なのである。(略)つまり外部に位置する切実なポイントから、逆に日本文化を浮かび上がらせて行くのだ。

 

と書いたのは岡本太郎であった(「沖縄文化論」中公文庫)。バスを乗り継ぎ、フェリーに乗って、久高島にも行くことができた。琉球開びゃく始祖・アマミキヨが降り立った島として、琉球の神話や神事が息づく島であり、かつてはよそ者が入ることさえ許されなかった神の島である。

 

島全体が聖域とされ、立ち入り禁止の御嶽(うたき)や拝所(うがんじゅ)、遊泳禁止の浜が点在する。イザイホーなどの祭祀場があるフボー御嶽は、入り口に「最高の聖域です。何人たりとも出入りを禁じます」と書かれた看板が設置されている。資料によれば、御嶽には鳥居はおろかご神体もなく、小さな香炉が置かれているくらいで、何もない。この御嶽で、あの世、もしくは神の世界と交信することは「ノロ」と呼ばれる霊力を持つ女にしか許されていない。

 

風と波と鳥のさえずりのほか、聞こえてくる音はない。時折、すれ違う島の方々と交わすあいさつも、つぶやきのようだ。アダンの樹木、白い小道の向こうにセルリアンブルーの海があり、林の奥に御嶽の色濃い気配がある。固い石垣と光る白砂、赤い花と枯れかかった樹木、有と無、光と影、生と死、人と神とが無言のまま共鳴し合う。一粒の砂さえ、島から持ち帰ることは禁止されている。言い換えれば、花、石、木の枝、一粒の砂、島の全ての存在が神とつながる媒体ということもできる。

 

天に向かって伸びる荘厳な教会や古い神社仏閣、ピラミッドやパルテノン神殿、タジマハールなどの巨大建築に圧倒され感動もしてきた。が、無条件、無防備なまでにかたちのない聖地から伝わる波動は、それらに勝るほどに強く迫り、魂を揺さぶる。神と呼ばれる存在、神の世界があるのだとしたら、それらは「かたち」の向こう側にあるのではなく、自分にまとわりつくかのような身近な存在であることを肌で感じ取ることができる。

 

こうした自然観、人間観、宗教観を抱いてきた沖縄の人たちが、国家権力のみならず、アメリカにまで強制的に支配され続けてきた歴史と現在を「現代日本をながめかえす貴重な鏡」として考え続けたい、とも誓った旅であった。