言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

「最後の春休み」。

春になると聞きたくなる歌がある。山本潤子さんの歌もその一つ。ユーミンの手がけた曲が少なくないが、曲によってはユーミンよりも山本潤子さんの歌のほうが大人びて、少し艶っぽく胸に滲み込んでくる。このことは、ユーミン本人も認めている。

 

赤い鳥、ハイファイセット、ソロになってからも、歌声は変わっていない。日本に歌手と呼ばれる人はたくさんいるが、ヴォーカリストと呼べる人は、この人を含め、両手で数えるほどしかいないのではないか。先日亡くなった大橋純子さんも、そんな中の一人だったはず。

 

10年以上前のことだ。母がまだ元気だったころ、実家に寄った帰り、かつて父が勤めた駅で列車を待っていたら、一枚のポスターが目に入った。山本潤子さんのコンサートの告知だった。こんな錆びれた街にも来て下さるのだと思ったら、うれしくなった。ありがたかった。

 

赤い鳥時代から一緒だったご主人を亡くされ、以降、あまり姿を見かけなくなった。寂しい思いをされているかと思うと胸が痛む。

 

記憶を辿るには、大きな音はいらない。かすかに遠くから聴こえる、響きがあればよい。振り返れば、置き去りにしてきたこと、目を背けてきたこと、みっともないことの束ばかり。けれど、みんな分かっているから、そのままでいいのだから。潤子さんの声は、そんなふうな振動を伴って、記憶の扉を開いてくれる。

 

自分の中では「最後の春休み」は3月の歌。「もしもできることなら この場所に同じ時間に ずっとずっとうずくまっていたい もうすぐ別の道を歩き 思い出してもくれないの そよ風運ぶ過ぎたざわめき 今は春休み 今は春休み 最後の春休み」。この人の歌声と沈黙のほかに、何もいらない、そんな春の日がある。