言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

子どもの言葉。

灰谷さんの本はたくさん読んで、たくさん捨てた。灰谷さんが亡くなったとき、そばに置くのがつらくなったからだ。
本を開くたびに、子どもたちの作文や詩に寄り添いながら、大人としての自分を律する姿が目に浮かぶ。
あれから何年たっただろう。いつの間にか、捨てた数を超える灰谷さんの本が棚に並んでいる。みんな買い直したのだ。
こんな詩が、いくつも散りばめられている。
 
 
「たいようのおなら」(のら書店) 灰谷健次郎 (著) 長新太(絵)
 
=たいようのおなら =

たいようがおならをしたので

ちきゅうがふっとびました

つきもふっとんだ


星もふっとんだ

なにもかもふっとんだ

でもうちゅうじんはいきていたので

おそうしきをはじめた

 

 

=おとうさん=

おとうさんのかえりが

おそかったので

おかあさんはおこって

いえじゅうのかぎを

ぜんぶ しめてしまいました

それやのに

あさになったら

おとうさんはねていました

 

 

=なかなおり=

わたしが五さいのとき

おとうさんと

おかあさんが

ふうふげんかをしました

でもいまは

そんなことはわすれています

きょうは 土よう日

あしたは 日よう日

あさっては 月よう日です

 

 

=かげ=

ゆうがた おかあさあんといちばへいった

かげがふたつできた

ぼくは おかあさんのかげだけ

ふまないであるいた

だって おかあさんがだいじだから

かげまでふまないんだ

 

 

=停電=

停電の夜

あんなところに

トタンのあな

星のようだ

 

=こころ=

せんせいは

なんのこころをもっているのですか

それをおしえてください

わたしは

なんのこころをもっているのですか

おしえてください

 

 

=いぬ=

いぬは

わるい

めつきはしない

 

 

=ただいま=

おかあさんがしごとにいっているから

学校からかえって

「ただいま」

といっても

だれもこたえてくれない

でもわたしの心の中に

おかあさんがいるから

へんじをしてくれる

 



近くに、言葉を引き出してくれる大人がいる子どもは幸せだ。なーに? と聴いてくれるからこそ、安心して話したり、書くことができる。
聴くという行為は、受動的な行為ではない。かなり強めの能動的な行為である。一見、ささやなかに見える聴くという行いが、確固たる愛情に下支えされているかどうかを、子どもはちゃんと見計っている。
 
 
 
 



※「子どもへの恋文 」(角川文庫))灰谷 健次郎 (著)  

 

詩集ではないが「子どもへの恋文」も、時折開く1冊。「子どもと共に生きることによって、生かされてきた」と語る著者の記録である。児童詩誌「きりん」の中の作品を多く紹介。

子どもの心の内奥から放出されるまっすぐな言葉には、いつも打ちのめされてしまう。一人の例外なく、子どもの心の中には、地球上に生きる人類が想像し得る、すべての願いや夢が詰まっている。

もしももしも、地球がなにかの拍子で消えてしまったとしても、言葉がいっぱい詰まった子どもの心は、宇宙の中で何千年も何万年も漂って、いつか必ず神さまのところに届く。そう信じている。

 

=月=

一人でお風呂に行っての

帰り道

月がわたしに

ついて来る

わたしが家に入ったら

月はどうするのかしら

 

 

=おなら=

ぷすん

ぽすんと

おならをこきました

それから

わたしは

おくさんごっこをしました

 

=夕日=

夕日が でると、

目が、つむれてくる

なんだかさみしいことが

体中を、とびまわる

夕日が、とびまわらす

 

=あそんで=

かあちゃん

びょうきで ねてんねん

おとうちゃん かいしゃ

にいちゃん いえにいいひんねん

おれな

よその子の こままわし

じっと みてるねん