言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

手入れと丁寧。

朝の「拭き掃除」を始めて15年ほどになる。雑巾を固くしぼって玄関の土間や仕事場の机、リビングの床などを拭く。きれい好きというわけではなく、手入れをすることで空間がきれいに見えてきて、頭の中が整理されていくのが心地よい。

 

拭き掃除を始めてから、道具の手入れも意識するようになった。クルマは9年目になる。整備工場に入れると、毎回、スタッフの方々から、手入れがいいですねとほめられる。クルマの外も車内も、汚れたらきれいにする、調子が悪くなったら整備に入れる。当たり前のことしかしていない。むやみにスピードを出さず、丁寧に運転することで燃費がよくなり、ボディーの傷みも少なくて済む。軽の四駆だが、この季節の燃費は、街中でリッター21キロを超える。自分の中では、まあ、合格点。

 

クラシックギターは1977年に購入した。弾き終えるとガーゼで全体をさっと拭き上げ、音叉でチューニングをしケースにしまう。この方法が正しいかどうかは知らない。弦は昔から、オーガスティンの青。詳しいことはわからないが、このギターとの相性がいい。ラジオやバリカン、カメラ、時計、家具(この2年で8割を処分した)など30年以上使っているものはたくさんある。丁寧に手入れしたものは長く使える、ということは統計的にも確かなようだ。

 

こんなに「タイパ」(タイムパフォーマンス=時間対効果)の悪いことに、何の意味があるのだろうと、嫌気がさすこともある。しかし、すでに身体が「型」を覚えて、おのずと、そういう動きをするようになってしまった。ほんの10分ほどで目の前がきれいになり、モノが長持ちする。タイパはよくないが、コスパはいい。

 

モノに埋もれて暮らすのはごめんだ。消費と処分を繰り返し、効率を優先しても、きっと楽しくない。朝、ゆっくりと床を拭くことで、その日の気温や水の温度を感じ、季節の移ろいを体感する。日々異なる床の堅さや匂いを感じつつ、片隅に小さな綿埃を発見して、あららと驚いたりする。ほんの少し意識をすれば、いくらでも得ることはある。

 

あのとき、あの人の話を、もう少しゆっくり聞いておけばよかったとか、きのう書いたレポートの何行目の表現は、違う言葉がよかったかも、といったことが頭に浮かんでくる。これらは雑念とは違う種類の思考だ。澄み渡った空気、高いレンズ性能でしか見えてこない風景があるように、丁寧な身体の動きと感応で思考の「解像度」が上げられる。

 

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「磨針(すりはり)峠」(小倉遊亀 おぐらゆき 滋賀県立博物館 1947)

 

 

日本画の巨匠・小倉遊亀おぐら ゆき 1895- 2000)に「磨針(すりはり)峠」という作品がある(写真上)。右に若い僧がいて、左では老婆が斧を研いでいる。若い僧は、厳しい修行に耐えかねて山を下りる途中である。

 

二人の視線が交わったときに老婆が「一本しかない針が折れたので、斧を研いで針を作っている」とつぶやく。若い僧は、その一言で己の修行の足りなさ、浅はかさを悟り、寺に戻ることを決意する。

 

老婆は観音菩薩の化身、僧は若き日の弘法大師とされる。美術館の解説にはこう書かれている。「この僧の姿には戦後の混乱期に日本画一筋に邁進する決意を固めた、作者自身の姿が投影されているとも言われています」。

 

身体を動かし、丁寧に空気や素材とふれあうことで感応が生じる。その感応とはおそらく、斧から針を作るような、強く意識された時と時の「間」、人と人の「間」の深いところからも生じるものである。従前、私たちが求めてやまなかった効率とは真逆のところにあるその「間」から、人の奥に眠る仏性が姿をあらわすこともある、と信じている。