〇日
毎日のように、ネグレクトや暴力を受ける子どもたちのニュースが聞こえてくる。仕事で、事件を起した少年や少女に関わったことがあった。多くは幼少期、両親によるネグレクトを経験しており、身体への暴力、あるいは言葉の暴力によってもたらされる過酷な現実に愕然としてばかりいた。
ネグレクトで思い出すのが、フリードリヒ2世の話だ。正確に再現できる自信はないが、おおよそ、こんな話である。
800年前。ローマ帝国のフリードリフ2世が50人の0歳児でスキンシップの影響を調べた。ミルクを与え、お風呂に入れ、排泄もきちんと処理をする。しかし、こんな条件が付けられた。けっして目を見てはならない。笑いかけない。語りかけない。ふれあってはならない。
結果は、1歳の誕生日を迎えるまで、生きていた赤ちゃんは一人もいなかった、という話である。
人間はふれあいなしでは、生きられない。赤ちゃんだけじゃなく、若者も中年も、老年も、みんなふれあいがほしい。皮膚は露出した「脳」であり「心」といわれる。だから、大事な人には、やさしくふれることで、大事にしたい心が伝わる。ちゃんと、願いを込めてふれるのだ。
〇日
来月は母の一周忌。99%片づけたつもりの母の持ち物だが、わずかに残った1%から、いまだ、ある種の温度を伴って、母の存在を感じることがある。コロナのせいで、最期の最期まで、その手さえふれることを許されなかった。「もう頑張らなくていいんだ、かあさん」という言葉だけが伝わったとしたら、悲しい。
老いや病、別離。大切な時間が当たり前のように過ぎていく。割り切れないものが増えていくのが人生だとしたら、人生の意味なんて理解できなくてもいい。何度、そんなやさぐれた気持ちになっただろう。そういうときに傍らで、静かな言葉を語りかけてくれた本は何冊かあったが、真民さんの詩集もそんななかの1冊。
ねがい//
ただ一つの
花を咲かせ
そして終わる
この一年草の
一途さに触れて
生きよう
今//
大切なのは
かつてでもなく
これからでもない
一呼吸
一呼吸の
今である
ねがい//
風の行方を
問うなかれ
散りゆく花を
追うなかれ
すべては
さらさら
流れゆく
川のごとくに
あらんかな
昼の月//
昼の月を見ると
花を思う
こちらが忘れていても
ちゃんと見守っていてくださる
母を思う
かすかであるがゆえに
かえって心にしみる
昼の月よ
※
さかむら・しんみん 1909年- 2006年 詩人。「念ずれば花ひらく」は聞いたことがある人も多いでしょう。世界の人たちの共感を呼び、世界中に737基を超える詩碑が建てられているそうです。どの詩もやさしく、胸に入ってきます。「一人のねがいを 万人のねがいに──」。ちゃんとした願いだけが、ちゃんと届くのだと思います。