言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

あっちゃんの入学式。

あっちゃんは一つ上のいとこである。1年生にしてはからだは大き目で、少しいかつい感じはしたが、大人みたいに穏やかな口調で話す、気持ちのやさしい子どもだった。


洋裁職人だった母は、入学のお祝いにとジャケットに半ズボンのスーツ、ワイシャツ、蝶ネクタイの一式をしつらえ、旭川のあっちゃんのうちまで届けに行った。でも、あっちゃんは、母の縫った服で入学式を済ませたあと、1カ月もしないうちに死んでしまった。脳腫瘍だった。



お葬式には、入学式のあとクラス全員で撮った記念写真の、あっちゃんの部分だけを四つ切に伸ばしたピンボケ気味の遺影が飾られた。真っ白なワイシャツに大き目の蝶ネクタイ、グレーのジャケットを着こなし、校章をつけた皺のない帽子を被ったあっちゃんは、額のなかで恥かしそうに笑っていた。喪服を着たおばさんが「大ちゃん、来てくれてありがとうね」と生まれたばかりの赤ちゃんにふれるときみたいなやさしさで、私の頭を何度も撫でてくれた。



私たち家族は、年に数回、母方の親せきが集まる旭川を訪れ、その都度、あっちゃんの家にも寄らせてもらっていた。私とあっちゃんは子ネコがじゃれるみたいにペタペタくっついて、仲良く遊んでいた。兄がいない私の、兄のような存在だった。

「おばさん、あっちゃん、どうしたの」
「天国に行っちゃった」
「天国ってなに」
「遠いところにあるんだ」
「あっちゃん、どこ行ったの」

まだ幼稚園に通っていた私にとって、生まれて初めての葬儀だった。おばさんやおじさん、父や母、親類たちは揃って、私に遺体を見せることも火葬場に連れていくこともしなかった。私はあっちゃんの家の小さな部屋で、年の離れた従姉たちにトランプを教わりながら、彼女たちにも「どこ行ったの」ばかり尋ねていたのだという。



「こんな服、いやだ」
そういって、だだをこねたら、バシッと頭を叩かれた。叩かれるのはいつものことだが、あのときの母の表情は、本当に怖かったのを覚えている。あっちゃんが一度だけ着た入学式の服のひと揃えを私の入学式で着てほしいと、あっちゃんのおばさんが送ってくれたのだった。


母は入学式の数日前に、私のためのスーツを仕立てていた。しかし、急きょあっちゃんの服を痩せっぽっちの私に合わせ、寸法を直すことにしたのである。私は自分のために縫ってくれた服を着たいだけだった。



入学式に撮った写真は、瓜二つといっていいくらい、あっちゃんによく似ていた。真っ白なワイシャツに大き目の蝶ネクタイにグレーのジャケット、校章をつけた真新しい帽子。

 

家の裏に雪が残っていたから、5月始めのことだったかもしれない。父と母と私と妹は鈍行列車で旭川に行き、あっちゃんの家に寄って、私の入学式の写真を、おばさんとおじさんに見てもらうことにした。


キャビネ版の写真の3列目に、あっちゃんと同じ服を着た私が、恥かしそうに写っていた。父も母も、おばさんも、おじさんも一言もしゃべらなかった。輪になって座った私たちの真ん中に置かれた私の入学式の写真に視線が集まった。大人たちが黙っていると、音のない言葉が、たくさん聴こえる気がした。



「来てくれてありがとうね」
帰り際、おばさんがいった。私はもう「あっちゃん、どこ行ったの」とは聞かなかった。その代わり、おばさんがどうして微笑んでいるのかを探るように、表情を見つめてばかりいた。

帰りの汽車で、父が、私と妹をさとすように、こう呟いた。
「あっちゃんの供養になったかな」
茶色に澱んだ石狩川が、車窓の向こう側に乱暴に流れていた。汽笛がボーッと鳴った。その音に負けないような強めの声で母がいった。
「駅に着いたら、みんなで、正直屋さんのラーメン食べに行こうね」

 

 

「子どもたちの日本」 長田弘 講談社

長田さんの詩を読むようになったのは、10年ほど前からだ。自分のなかの詩集といえば、茨木のり子さんで一つの時代が終わっていた。長田さんの詩集やエッセイ集を開くと、批判でも評論でもなく、それでいて穏やかなだけでもない意思が、紙面の余白に拡散されている。何度も反復し自分の中に取り込む作業は、いつも少しの痛みを伴う。

 

人は子どもから大人になるのではありません。

子どもとしての自分をそこにおいて

人は大人という

もう一人の自分になっていきます。

 

語る言葉としゃべる言葉とはちがいます。

語る言葉は自分を集約していく言葉。

しゃべる言葉は、自分を拡散していく言葉。

いま思い起こしたいのは、

しゃべる言葉ばかりがとびちる

日々の光景の中に

忘れられているこの国の語る言葉の

ゆたかさの伝統です。