言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

「向こう」から来るもの。

〇日

新千歳空港には10時前に着いた。快速エアポートと地下鉄を乗り継ぎ、11:30、札幌市内のカフェでAさんとお会いする。

リュック一つという最小限の荷物で行ったというのに、Aさんが準備していた資料は厚さ10センチくらいのファイルの束。順番に資料の解説をうかがうと、おそらくは国内にない貴重な資料ばかり。少しの落胆はすぐに「おお…」という静かな歓喜に変わった。

 

昼食を挟み、打ち合わせを終える。資料をリュックに入れ、よいしょと背負ってホテルに入ったのは15時過ぎ。この人の意志をどれだけ伝えられるだろうか。ベッドで天井を仰ぎながら、不安になる。

 

札幌は、変わった。昔むかし、私たちが住んでいた頃はまだ、よそから来た人には誰もが親切で、会ってすぐに、腹を割って話せるような人が少なくなかった。よそ者が集まる開拓地では、それが人間関係の暗黙のルールでもあった。

それがいまや、お店の人は一様に不愛想になり、街を行き交う人の表情も冷めて見える。長らく続いた不景気のあとに訪れたインバウンド、新型コロナによる低迷。短い期間でお金や権力を手に入れたり、失ったりすると、安易に人を信用しない、そんな性格に変わっていくのだろうか。

 

夕食のあとでススキノのバーに立ち寄る。マスターは違う人になったが、自分たちが住んでいた頃からある老舗である。カクテルなどの洒落た飲み物はだめなので、エビス・ザ・ブラック。余談だが、何十年か前は、サッポロにも小瓶の「黒ビール」があって、ギネスに劣らない名酒と称された。特急の食堂車のメニューにも、必ずあったことを覚えている。

 

カウンターの右端に座る。中央で、40代くらいのおねえさんたち2人が、食べ物の話題で盛り上がっている。

 

「1年以上かかったんだ、524種類」

「524種類?」

「映画と同じ、524種類」

「全部、自分で考えて、全部、自分で作ったの」

 

「映画と違うのは、全部、自分で考えたレシピってこと」

「毎日?」

「毎日だよ」

「全部、自分で食べた?」

「食べきれないときは、職場のみんなにお弁当にして持って行った」

 

「すごいね」

「すごいでしょ」

 

スマホで撮った料理を2人で眺めながら、楽しそうな会話が続いている。スマホを持つ彼女と目が合った。

 

「ご覧になります?」

「はい」

 

スマホに収められた料理の数は、確かに524。ナンバーがふってある。1日も欠かさず、足掛け2年にわたる挑戦だったそうだ。

 

「どうして、こんなこと、始めようと思ったのですか」

「やり遂げたあと、私に、何がやって来るのか知りたかったんです」

「ほかに、期待はせずに?」

「はい、そうです」

「それで、何が、来ましたか」

「…」

 

しばしの沈黙のあと、彼女は正面を見据えて、こう言い切った。

「私に『できた』ということです。それが『来た』ものです」

少しさびしくなったススキノの夜。素敵な物語が準備されていることもある。

 

 

 

「JULIE & JULIA」   2009年 米   監督:ノーラ・エフロン

彼女たちの会話に出てきたのは、この映画。1960年代に出版したフランス料理本で人気となった料理研究家ジュリア・チャイルド(Julia Child)と、彼女の524のレシピを1年で制覇しようとブログに書く現代のジュリー・パウエル、二人の実話を基にした作品。ジュリア・チャイルドを演じたメリル・ストリープゴールデングローブ賞・主演女優賞を受賞した。