言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

Hawaii, Hilo。

ホノルルに着いた翌日、ワイキキの通りで格安航空券を扱う代理店を物色。いちばん安いチケットを手に入れ、午後、ハワイ島・ヒロに飛んだ。飛行時間はわずか数十分。地元の人は買い物かごを持って、バスで移動するみたいに、この路線を使っている。

ヒロは、島の東海岸に位置する、ハワイ郡の郡庁所在地である。空港の人に安い宿を教えてもらい、そこを起点に1週間ほど町なかの写真を撮った。


古い低層の木造建築が並ぶダウンタウンは、人もクルマも少なく、ワイキキみたいに浮かれたところが全くない。ショップやレストラン、カフェは地元の人ばかり。店に入るとどこでも「ロコ?(ここの人間か?)」と聞かれた。サンダル履きで町をふらつく日系人以外の日本人など、むしろ警戒すべき人物だったのかもしれない。

毎日の朝食はKeawe St.とMamo St.が交差するあたりにあった、Aさん夫妻のカフェでとった。2人とも日系2世で、店は1940年代の創業。ベーコンエッグのベーコンは日本の定食屋さんで食べる生姜焼きの肉を2枚重ねにしたくらいに大きくて分厚い。マグカップのコーヒーが少なくなると、奥さんのBさんが、ニコッと笑ってダブダブと継ぎ足してくれた。

開店間もなく、店のカウンター席は地元の日系人で満席となった。日本からか、生まれは北海道か。そうか、よく来た。死ぬまでに、雪まつりを見てみたい。俺たちと島をドライブしないか――。

そんなふうに、毎日、たくさんのおじさんたちから声をかけられた。日本語も話せないくせに、日本からというと、みんな懐かしい思いを抱くんだ。Aさんはいつもそういって笑った。そういう夫妻も、日本語で話すことはなかった。移民の苦労話を2時間以上聞かされることもあったが、彼らは一様に卑屈ではなく、むしろ快活で誇りに満ちていた。


町の中心にある公園の、名前の知らない大きな木の下は、ホームレスのたまり場だった。目が合うと「おまえ、ベトナムを知らんだろう」「一緒に、吸わないか」などと声をかけてくる。笑ってはいるが目の光は鋭く、光の奥に狂気を感じることもままあった。近くを通る人が「関わるんじゃない」と目で合図をする。ほどほどにしないと、けんかになったり、一緒に危ない何かを吸ったりすることになる。


帰国して数年かたって、Aさん夫妻が亡くなったことを知った。その日から、Aさん夫妻のいるカフェは、誰も手を加えることのできない風景として自分のなかの深くに沈殿し記憶の一部となっている。

全てが変わって気づく懐かしさもあれば、初めてだけど、懐かしさに包まれることもある。そこには言葉はなく、おそらくは、互いの周波数が合致しているだけだ。

時間がゆっくり流れているのではなかった。時間の流れそのものが、この世の存在を呑み込んでしまうみたいに、滞っていた。そんな町が、これまで旅した土地のなかにいくつかある。

 

〇年〇月の記録から//


 


時間を見つけては、昔の写真やメモの整理をしている。フィルムからデジカメに換えてから何年たつだろう。膨大な量のネガとプリントが、ひきだしの奥に眠る。スキャンして保存する方法もあるのだろうが、それをやると、1、2か月では済まないはず。ここに載せた数枚をスキャンして明暗調整程度の暗室作業を加えただけで、小一時間かかった。一度焼いたネガに手を加えるなど、無駄な作業だった。




『ハワイ島アロハ通信』平野 恵理子(東京書籍 1992) ずっと、この人のフアン。ハワイ島・ヒロの旅では、同著がガイドブックとなってくれた。東京書籍版は版も大きく見ごたえがあり、文庫は文庫で、かわいくて好きだ。