言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

キヨシさんのこと。

 

大学時代。横浜市内のある駅の売店でバイトをしたことがあった。売店といっても構内に2本あるホームの売店にジュースやビール、牛乳などを運ぶ、いわば運び屋だ。

 

牛乳瓶が60本入ったケース1箱は、おそらく20キロ以上の重さがある。それらを缶ジュースや缶ビールの箱と組み合わせ、2箱から4箱、肩に担いでは跨線橋を渡って向かいのホームの売店まで運ぶ。階段を1つ上るたびに、腰がみしみしと音をたててきしんだ。が、運んだあとは品切れになるまで倉庫で休むことができた。時間で計算すると、割のいい仕事ではあった。

 

キヨシさんは右足に障害があった。年は60ちょっと前。しばらく、ホームレスで暮らしていたが行政機関の紹介で、日雇いで働くことになったのだった。前歯の1本が欠け、言葉はどもっていて、私のことを少し空気が抜けた感じで「に、に、にーちゃん」と呼んだ。笑うと顔中が皺だらけになった。いつも、面白くもなんともない冗談で人を笑わせた。


身長は145センチくらい。痩せ細っていたキヨシさんが一度に運べるのは、せいぜいビール箱1つだった。毎日会社に顔を出していたが、そのうち無断欠勤が多くなり、ある日突然クビになって、みんなの前から姿を消した。



そんな私も毎日の重労働で腰を痛め、その翌月にバイトを辞めた。でも、食わなきゃいけない。仕送りはわずかしかなかった。


数日たって、横浜駅地下にある蒲鉾屋でバイトを始めた。そんなある日、駅地下の通路の片隅で、キヨシさんを見かけたのである。

 

冷たい床に敷いた段ボールに座って、とろんとした目で宙を仰ぐ様子はホームレスそのものだった。薄汚れた作業服に、埃で灰色になった頭。顔も腕も脂ぎって、褐色に見えた。


「キヨシさん」と声をかけると「に、に、にーちゃん。げ、げ、元気か」といってくれた。かわいい笑顔は、相変わらずだったが、前よりいっそう皺が増えて見えた。

キヨシさんは、毎日毎日、同じ場所に座っていた。ある日、いつものように挨拶すると「に、に、にーちゃん。ひっ、100円貸してくれ」と泣きついてきた。ジーンズの前ポケットから硬貨を2枚出し、キヨシさんに手渡した。数日後、顔を合わせると、同じことをいってきた。その日は、100円玉1つを手渡した。


今度は、バイトの店の前にキヨシさんが現れた。ボロ雑巾みたいに全身がいっそう汚れて、見るからに悲惨だった。目が合うと、少し悲しそうな顔でニコッと笑って見せた。途端に「知り合いか。追っ払え」と店長に叱られた。


足を引きずるキヨシさんを店から離れた場所まで、手を引いて連れて行った「な、なんか食わせてくれ」とキヨシさんがいった。2日間ほど何も食べてないという。お金もとっくに尽きたのだろう。

 

店に戻って店長に事情を話し、賞味期限切れの薩摩揚げ数枚を安く売ってもらい、キヨシさんのいる場所まで戻った。そして「キヨシさん、だめだよ、お店まで来ちゃ」といって手渡した。くすんだ感情が冷たくなって、自分の背中をゆっくり伝わっていくのが分かった。


1週間後、キヨシさんはまた店の前に現れた。私はといえば、すっかり無視を決め込んで、頑なに視線を合わせることはしなかった。それから一度も、キヨシさんを見かけることはなかった。


あの日から数日が過ぎ、キヨシさんがいた場所には、ほかのホームレスたちが陣取っていた。毎日、そこを通るたび「キヨシさん、知りませんか」と尋ねてみたが、みんな首を横に振るだけだった。