言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

活字とジョバンニ。

「銀河鉄道の夜」宮澤賢治)に出てくるジョバンニは、学校の帰り、活版印刷所で働いていた。この町で私が仕事を始めた頃にも「活版印刷」は細々とだが、まだ残っていた。

 

印刷会社には文撰・植字工という職人さんがいて、片手に鉛の活字が入った箱を持ち、原稿を見ながら、箱から文字を拾って、版にする。ほっこり膨らんだかすかな文字の浮きが、目でも手でも感じとれるこの印刷が好きだった。

 

活版が、写植に移行したのは70年代のことだ。写植とは、暗箱に印画紙をセットして文字を現像するシステムで、オペレータが手動で1文字ずつ文字を打って印画紙に印字する。版下専門の職人さんがいて、版に校正が入ると、カッターで1文字1文字切り貼りをして文字組を整える。これをもとに印刷用のフィルムを作成し(整版)、印刷するのである。

 

取材の現場から、整理・デザイン、写植、版下、校正・校閲、製本、印刷、発送に至るまで、各分野の専門の職人たちが一本の線でつながっていた。

 

その後、電子化された写植機が登場し、印刷会社はこぞって数千万円から億単位の投資をする。しかし、皮肉なことに、ほぼ並行してMacintoshを中心としたDTPシステムが登場し、それらは一気に衰退の運命をたどる。

 

紙とペンを使っていた書き手は、同じく紙にデザインの線を描き、文字組みを指定していたデザイナーさんともどもラインに組み込まれ、Macintoshを購入せざるを得ない状況に置かれた。機械音痴の私でも、この時期に購入したMacintoshDTP関連のソフト込みで200万円を超える。

 

そのMacintoshも6台の機種変更を経て、Windowsに転換してから15年近くになる。蛇足になるが、20年以上も前に使っていたMacワープロソフトの組み合わせと最新のWordを比べると、前者の使い勝手をいまも全く超えていないことに愕然とする。

 

毎日のように、オンデマンド印刷や書籍の電子化に関するDMやメールが届く。取材も撮影も編集もデザインもご自由に。完全データだけ送ってください。PDFでもWordでもOK。お宅の町の印刷会社と比べてください。ほら、安いでしょう。納品も早い。文字やデザインの変更はできません。安いし、早いんだから。紙でも電子でもささっとやります。最後まで顔を合わせることなく、ストレスなしで仕事ができます――という話である。

 

近年は、役所でも印刷会社にデータだけの納品を要求し、肝心の印刷はどこか地方の安いところに、というケースも増えている。地場産業を守るといった大命題を、自ら踏みにじるような仕事のやり口には驚くばかりだ。

 

活版がよかった、写植は写研の明朝がいい。紙の書籍は所有してこそ歓びがある。若者の「読む力」がひ弱になっている――そう語る人は少なくないが、本のよさをいちばん知っているのは、活字を打ち、編み、インクの汚れと匂いにまみれ、汗だくで機械を回してきた職人たちだ。

 

効率を優先したデジタルの「流れ」に乗れず、失意のまま写植やデザインの会社をたたんだり、職を失い、挙げ句の果ては一家離散、自ら死を選んだ人まで、そうした腕利きの職人を何人も見てきた。何の手助けもできず、自らもその「流れ」に戸惑いながら仕事を続けてきた。彼らは一人の例外もなく、活字の1字1字を、あらゆる紙を、冊子を、本を愛し、いまとなっては徒労としかいえないような「手間」をいとおしんだ人たちであった。

 

日本の出版市場は紙書籍の売上が1兆0612億円に対し、電子書籍が5351億円(23年度)。紙は前年比94%だが、電子は106.7%と堅調な伸びという。書籍の半数が電子化されるこの流れは、もう誰にも止められない。

 

流れに乗り遅れた出版者、多大な投資を続けてきた印刷業界は間違いなく、かつての活版や写植、版下の職人たちと同じように淘汰されていくだろう。その時期は、世間の想像よりもかなり早いと思われる。情報の受け手といえばいっそう、考える視座や過程を学ぶのではなく、どこがいい、あれがいい、といった結論だけを、性急に要求する。あらゆる情報はさらに、質の高さではなく、流通する速さと量だけで判断されていくのかもしれない。

 

 

ジョバンニは、学校を終えるとまっすぐ家には帰らず「町を三つ曲ってある大きな活版処」で働いていた。「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次へと拾いはじめました。(中略)ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました」。

 

そして、仕事で得た小さな銀貨1枚を握りしめ「元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋」を買って、病弱のお母さんの待つ小さな家に帰る。「お母さん。いま帰ったよ。具合悪くなかったの」と尋ねるジョバンニに、お母さんは「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼しくてね。わたしはずうっと具合がいいよ」と答える。

 

ジョバンニは、角砂糖を牛乳に入れてお母さんに飲ませたいと考えていた。お母さんは「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから」とジョバンニを思いやる。

 

活版で拾う活字とお母さんと交わす会話が同列に、紙幅から有機的な「言葉」となって立ち上がる。母子の絆の深さが伝わる場面でもある。お母さんは、ジョバンニが自分のために費やした時間の価値を誰より感じている。

 

ジョバンニはカムパネルラと一緒に、永遠とも一瞬ともいえる時間軸を、銀河鉄道に乗って旅をした。物語はこう結ばれている。「早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました」。

 

紙と電子では、情報の内容は同じでも、完成までに堆積されている手わざと時間の量が桁外れに違う。デジタルの世界に流れる時間が冷たく、薄っぺらなものに思えてくるのは歳のせいだけではないだろう。ジョバンニがその一端を担ったように、職人たちの時間や眼差しを感じ、行間から彼らの息遣いが聴こえてくるような活字が、近ごろ、めっきり少なくなった。

 

 

 

新装版「銀河鉄道の夜」  宮沢賢治 (原著) 藤城清治 (著) 講談社

藤城清治さんと安野光雅さんのお仕事は、心から尊敬できるものばかり。手元にある作品は40年前の旧版で、新装版はまだ手にしていない。判型が読みづらいとの声もあるが、旧版よりページが増えているだけお得といえる。同作品は、日本の宝でもある。賢治の世界を学ぶ入門編としても最適。