言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

絵の具の匂い。

英語を習い始めたのは小学5年生のときからだった。母はそれまで息子の教育になど、なんの関心もなかった人だったけれど、ある日、近所のおばさんに「中学に入る前に、英語くらいやっておかないと」とかなんとか勧められ「おまえ、明日から英語に行け」と相成った。

訳のわからぬまま、それから週に一度「英語に行く」ことが始まった(ちなみに母は、病院で検査を受けると『今日は身体にコンピューターをかけてきた』と話していた)。

教室といっても塾でもなんでもなく、ふつうの公営住宅の一室である。先生は、30代なかばの女流画家だった。近所のおばさんたちに、大学時代に英語を少しはやったのだろうから、息子や娘に教えてくれないか、と無理矢理に頼まれたらしい。絵を描くだけでは食えないので、それじゃあと仕方なく引き受けたのだと、あとになってうかがった。

四畳半の部屋が3つしかないアパートは、寝室以外は襖が開け放たれ、教室となる狭い居間のすぐ隣がアトリエになっていた。玄関を開けるとすぐに、油絵の具の香りがつんと鼻をついた。アトリエには、カンバスやら新聞紙やら、描きかけの絵や絵の具が無造作に散らばっていた。その無造作具合が、北側の窓から差し込む日差しに淡く照らされ、美しい陰翳をつくっていた。

 

祖父も、叔父にあたる父の長兄、5つ下の弟も、生涯、仕事の傍らで絵を描き続けた。弟の方の叔父は看板屋で働きながら、50代後半で亡くなるまで、たくさんの作品を残し、一部は地元の美術館にも所蔵されている。亡くなるまでの数年間は「日展」の北海道版ともいえる「道展」の審査員も務めた。

小さな頃から、家のどこかに彼らの絵が壁に掛けられ、年月を経てもなお、かすかに漂う油絵の具の香りは、遠い異国の芳香のようなものを、子どもの私に想像させた。

 

 

アメデオ・モディリアーニ『おさげ髪の少女』 1918年頃 名古屋市美術館

 

ある日、先生のアトリエをそっとのぞいてみた。首の長い男や女の絵が数点そこにあった。どの顔も不思議と目は静かで、何か言いたげだが、じっと言葉を飲み込んでいるように見えた。

絵の具の匂いは、静謐な大人の女の匂いでもあった。そうでなくても、先生は化粧をしなくとも肌は蒼白く、すっと通った細い鼻筋に、大きめの赤い唇を備えたきれいな人であった。短く清潔にカットされた髪は、小柄な顔と長い首筋をさらに浮き上がらせ、大きいけれどもどこか寂しげな眼が、それらの絵の人物と重なって見えた。

「これ、先生の顔なんですか」

「似ているかもしれないね。私はモジリアニのような絵を描きたいの」
「モジリ蟹ですか」

 

町に(もじり)という地名があって、そこに生息するカニ=モジリガニ=のことだと思い込んだのだ。そんなカニなどいるはずもなく、ましてやモジリアニなど知る由もなかった。

それからの5年間、せっせと教室に通い続けたが、楽しみといえば、英語を習うよりも先生がいま、どんな絵を描いているのか、アトリエをのぞいて確認すること。そして、油絵の具の匂いのなかで過ごす時間だった。


赤や黄や青の絵の具で雑多に汚れたエプロン。全身から漂う表現との格闘の痕跡。じゃあ今日は…と、テキストを開くときの、諦めにも似た、沈思する顔。そこには「これは『生活』のためなのよ」と自分に言い聞かせる現実の顔と、夢のなかに半身を置く別の顔とが複雑に交差した大人の顔があった。そして、その顔はときに、先生の描く首の長い、静かな眼をした人に重なっても見えた。


「来月、引っ越すことになりました」
最後に教室に行った日のことは、覚えてはいない。油絵の具の匂いに、週に一度、ふれることができなくなること。そのことだけが寂しかったことを覚えている。



大人になってから、一度だけ、油絵をやろうと意を決し、絵画教室に通ったことがあった。モジリアニみたいな大人の男、大人の女の顔を描いてみたかったが、3回通ってやめた。直感的に「この道を行けば、破綻が来る」と思ったのだ。その判断はあながち間違ってはいなかったと信じている。



絵を描いた祖父や叔父たちの、半ば破滅的な生涯を見続けてきた私にとって、1つの道を「生活」とは切り離さないギリギリのところで深めることの危うさに、向き合うことはできなかった。

 

その後、先生の人生が、どうなったのかは知らない。この道を行けば、全てを捨てる。大切なものを失う。そんな自分に切り替わってしまうのが、いまもなお、想像するだけで、ひたすらに怖い。

絵画教室に通うために買った油絵の具もカンバスも、収納の奥にしまったまま。再び、絵を描き始める日は、絶対に来ない。そう決めている。