言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

読んだ本の記録─── あの人の「眼差し」。

 
 
 
 
三岸節子さんの絵が好きだ。彼女の書く文章も。花の絵が多い。花など育てることも愛でることもしないくせに、この人の「花」が好きだ。
 
花よりもいっそう花らしい、花の生命を生まなくては、花の実態をつかんで、画面に定着しなければ、花の作品は生まれません。
つまり、私の描きたいと念願するところの花は、私じしんのみた、感じた、表現した、私の分身の花です。
この花に永遠を封じ込めたいのです。
生涯自信のもてる一枚の花を描きたいのです。
(六十歳記 1965)
 
1924年三岸好太郎と結婚し、1934年に死別。1954年に息子黄太郎が留学していたフランスに渡り、ともにヨーロッパの各地を巡り作品を残した。1989年に帰国した時はすでに、84歳。
 
白い花や白い風景といいますのは、大変難しいんです。
ごまかしがききません。
念には念を入れて描かなければなりませんね。
(八十四歳談 1989)
 
白い花のような無垢な魂をお持ちの方だった。昔、札幌で働いていたとき、会社の近くに三岸好太郎美術館があった(北1条西5丁目 のちに北海道立近代美術館に隣接して移転)。昼休みを利用するなどして、何度か入ったことがある。が、節子さんの作品に興味を抱いたのは、ずっとあとになってからのこと。好太郎と暮らして味わった孤独、異国で味わった孤独。音もなく爆発するかのような花の生命を描く力は、血を吐くほどの孤独にこそ醸成されたものであったかもしれない。「花こそわが命」にある文章を、ノートに書き写した。出張時によく泊まる札幌のホテルの近くに好太郎の生誕地があったことを、近年初めて知った。
 
 
 
 

「キャパの十字架 」 沢木 耕太郎 (著) 文春文庫

ルポルタージュの心構えは、沢木耕太郎さんから学んだ。写真の心構えは、キャパから。生意気に思われるかもしれないが、事実、そうしてきた数十年であった。「キャパ」はいかにして「キャパ」になったか。最も有名な写真――戦場カメラマン、ロバート・キャパが1936年、スペイン戦争の際に撮影した「崩れ落ちる兵士」は、見事な迫真性がゆえに、長く真贋論争が闘われてきた。真実を求めてスペイン南部の〈現場〉を特定し、その結果、導き出された驚くべき結論とは。実際に彼の地を歩いたのは遠い昔のことになる。


 
 
 


ユージン・スミス ~水俣に捧げた写真家の1100日」
山口由美 (著) 小学館

胎児性水俣病患者の娘を胸に抱く母子の姿をとらえた「入浴する智子と母」を見たとき、身体が震えたことを覚えている。やがて、この一枚は世界中を震撼させた写真集『MINAMATA』に収録され、それを撮った人物を知ってまた驚いた。20世紀を代表する写真界の巨匠、ユージン・スミス(1918-1978)。独特の撮影手法や患者との交流、写真にかける情熱、情の深い人柄など、これまで語られることのなかったユージン・スミスの「水俣」がよみがえる。石牟礼道子さんの作品と並列しつつ、繰り返し読んできた本の中の1冊。
 
 



「血とシャンパン」
アレックス カーショウ (著), Alex Kershaw (原著), 野中 邦子 (翻訳) 角川書店

キャパは誠実、辛辣、気難しいだけのカメラマンではなかった。血の海で生き残った者だけが、シャンパンにありつける――。絶望ゆえに陽気な酒飲みを装い、友を愛し、酒を愛し、女を愛し、人生の歓びを追求した。五つの歴史的戦争をフィルムに収め、ベトナム戦争で地雷に触れて死亡したカメラマンの生涯。この人の作品は多くのカメラマンを戦場へと誘い、また、死の淵へと導いた、と書いたらお叱りを受けるだろうか。いま、自分のいる場所で食えないから、とりあえず戦場にでも行ってみる、といった安易なカメラマンたちが少なくなかった。彼らとは明確な一線を画すべきであると考えている。




「東京人生」 荒木経惟 (著) バジリコ

長らく、この人のことも作品も、好きにはなれなかった。注目するようになったのは、奥さんが亡くなる過程のルポを撮ったあの作品以来。 “天才アラーキー”として過激なヌードを次々と発表するが、女たちが彼の前ではてらいなく肌をあらわにする意味が分かる。仕事に誠実な人は、人に誠実なのだ。「死がどんどん近づいてくるから、生に向かう――老いていくとかいうことより死が濃厚になってきているんだよ」。最近、自分も、そう思う。
 
 




「戦場カメラマン 沢田教一の眼」―青森・ベトナムカンボジア1955-1970 山川出版社

顔が好きだ。青森人らしい、キレのいい、適度に水分を含んだ艶のある眼。ハンサム、いい男なのだ。その男の眼が、世界を撮り続けた。ベトナム戦争に従軍し「安全への逃避」「泥まみれの死」などで、ピューリッツアー賞・キャパ賞を受賞。寺山修司と高校の同級生であったことはあまり知られていない。1970年にカンボジア戦線で銃撃され死亡。この人は、キャパと同じく「人がどのように死んだか」を撮ったのではない。「なぜ、人が、ここで死ななければならなかったのか」を撮った。
 
 
 
 
 
丸木俊さんは、1912年、北海道秩父別の生まれ。1941年に水墨画家の丸木位里と結婚。戦後は代表作《原爆の図》をはじめ《南京大虐殺の図》《アウシュビッツの図》《水俣の図》《沖縄戦の図》など 社会的主題の夫婦共同制作を発表している。この方のプロフィールをあまり知らなかった。とりあえず、手元に置いて眺めている。この機会に真剣に勉強してみたい。
 
 
 
※2か月分のメモ。写真集、画集は高価なので、いったん図書館で手に取り、納得できたものを後日購入している。
 
 

「最後の春休み」。

春になると聞きたくなる歌がある。山本潤子さんの歌もその一つ。ユーミンの手がけた曲が少なくないが、曲によってはユーミンよりも山本潤子さんの歌のほうが大人びて、少し艶っぽく胸に滲み込んでくる。このことは、ユーミン本人も認めている。

 

赤い鳥、ハイファイセット、ソロになってからも、歌声は変わっていない。日本に歌手と呼ばれる人はたくさんいるが、ヴォーカリストと呼べる人は、この人を含め、両手で数えるほどしかいないのではないか。先日亡くなった大橋純子さんも、そんな中の一人だったはず。

 

10年以上前のことだ。母がまだ元気だったころ、実家に寄った帰り、かつて父が勤めた駅で列車を待っていたら、一枚のポスターが目に入った。山本潤子さんのコンサートの告知だった。こんな錆びれた街にも来て下さるのだと思ったら、うれしくなった。ありがたかった。

 

赤い鳥時代から一緒だったご主人を亡くされ、以降、あまり姿を見かけなくなった。寂しい思いをされているかと思うと胸が痛む。

 

記憶を辿るには、大きな音はいらない。かすかに遠くから聴こえる、響きがあればよい。振り返れば、置き去りにしてきたこと、目を背けてきたこと、みっともないことの束ばかり。けれど、みんな分かっているから、そのままでいいのだから。潤子さんの声は、そんなふうな振動を伴って、記憶の扉を開いてくれる。

 

自分の中では「最後の春休み」は3月の歌。「もしもできることなら この場所に同じ時間に ずっとずっとうずくまっていたい もうすぐ別の道を歩き 思い出してもくれないの そよ風運ぶ過ぎたざわめき 今は春休み 今は春休み 最後の春休み」。この人の歌声と沈黙のほかに、何もいらない、そんな春の日がある。

 

 

 

Hawaii, Hilo。

ホノルルに着いた翌日、ワイキキの通りで格安航空券を扱う代理店を物色。いちばん安いチケットを手に入れ、午後、ハワイ島・ヒロに飛んだ。飛行時間はわずか数十分。地元の人は買い物かごを持って、バスで移動するみたいに、この路線を使っている。

ヒロは、島の東海岸に位置する、ハワイ郡の郡庁所在地である。空港の人に安い宿を教えてもらい、そこを起点に1週間ほど町なかの写真を撮った。


古い低層の木造建築が並ぶダウンタウンは、人もクルマも少なく、ワイキキみたいに浮かれたところが全くない。ショップやレストラン、カフェは地元の人ばかり。店に入るとどこでも「ロコ?(ここの人間か?)」と聞かれた。サンダル履きで町をふらつく日系人以外の日本人など、むしろ警戒すべき人物だったのかもしれない。

毎日の朝食はKeawe St.とMamo St.が交差するあたりにあった、Aさん夫妻のカフェでとった。2人とも日系2世で、店は1940年代の創業。ベーコンエッグのベーコンは日本の定食屋さんで食べる生姜焼きの肉を2枚重ねにしたくらいに大きくて分厚い。マグカップのコーヒーが少なくなると、奥さんのBさんが、ニコッと笑ってダブダブと継ぎ足してくれた。

開店間もなく、店のカウンター席は地元の日系人で満席となった。日本からか、生まれは北海道か。そうか、よく来た。死ぬまでに、雪まつりを見てみたい。俺たちと島をドライブしないか――。

そんなふうに、毎日、たくさんのおじさんたちから声をかけられた。日本語も話せないくせに、日本からというと、みんな懐かしい思いを抱くんだ。Aさんはいつもそういって笑った。そういう夫妻も、日本語で話すことはなかった。移民の苦労話を2時間以上聞かされることもあったが、彼らは一様に卑屈ではなく、むしろ快活で誇りに満ちていた。


町の中心にある公園の、名前の知らない大きな木の下は、ホームレスのたまり場だった。目が合うと「おまえ、ベトナムを知らんだろう」「一緒に、吸わないか」などと声をかけてくる。笑ってはいるが目の光は鋭く、光の奥に狂気を感じることもままあった。近くを通る人が「関わるんじゃない」と目で合図をする。ほどほどにしないと、けんかになったり、一緒に危ない何かを吸ったりすることになる。


帰国して数年かたって、Aさん夫妻が亡くなったことを知った。その日から、Aさん夫妻のいるカフェは、誰も手を加えることのできない風景として自分のなかの深くに沈殿し記憶の一部となっている。

全てが変わって気づく懐かしさもあれば、初めてだけど、懐かしさに包まれることもある。そこには言葉はなく、おそらくは、互いの周波数が合致しているだけだ。

時間がゆっくり流れているのではなかった。時間の流れそのものが、この世の存在を呑み込んでしまうみたいに、滞っていた。そんな町が、これまで旅した土地のなかにいくつかある。

 

〇年〇月の記録から//


 


時間を見つけては、昔の写真やメモの整理をしている。フィルムからデジカメに換えてから何年たつだろう。膨大な量のネガとプリントが、ひきだしの奥に眠る。スキャンして保存する方法もあるのだろうが、それをやると、1、2か月では済まないはず。ここに載せた数枚をスキャンして明暗調整程度の暗室作業を加えただけで、小一時間かかった。一度焼いたネガに手を加えるなど、無駄な作業だった。




『ハワイ島アロハ通信』平野 恵理子(東京書籍 1992) ずっと、この人のフアン。ハワイ島・ヒロの旅では、同著がガイドブックとなってくれた。東京書籍版は版も大きく見ごたえがあり、文庫は文庫で、かわいくて好きだ。

一呼吸の今。

〇日

毎日のように、ネグレクトや暴力を受ける子どもたちのニュースが聞こえてくる。仕事で、事件を起した少年や少女に関わったことがあった。多くは幼少期、両親によるネグレクトを経験しており、身体への暴力、あるいは言葉の暴力によってもたらされる過酷な現実に愕然としてばかりいた。

 

ネグレクトで思い出すのが、フリードリヒ2世の話だ。正確に再現できる自信はないが、おおよそ、こんな話である。

 

800年前。ローマ帝国のフリードリフ2世が50人の0歳児でスキンシップの影響を調べた。ミルクを与え、お風呂に入れ、排泄もきちんと処理をする。しかし、こんな条件が付けられた。けっして目を見てはならない。笑いかけない。語りかけない。ふれあってはならない。

結果は、1歳の誕生日を迎えるまで、生きていた赤ちゃんは一人もいなかった、という話である。

人間はふれあいなしでは、生きられない。赤ちゃんだけじゃなく、若者も中年も、老年も、みんなふれあいがほしい。皮膚は露出した「脳」であり「心」といわれる。だから、大事な人には、やさしくふれることで、大事にしたい心が伝わる。ちゃんと、願いを込めてふれるのだ。

 

 

〇日

来月は母の一周忌。99%片づけたつもりの母の持ち物だが、わずかに残った1%から、いまだ、ある種の温度を伴って、母の存在を感じることがある。コロナのせいで、最期の最期まで、その手さえふれることを許されなかった。「もう頑張らなくていいんだ、かあさん」という言葉だけが伝わったとしたら、悲しい。

 

老いや病、別離。大切な時間が当たり前のように過ぎていく。割り切れないものが増えていくのが人生だとしたら、人生の意味なんて理解できなくてもいい。何度、そんなやさぐれた気持ちになっただろう。そういうときに傍らで、静かな言葉を語りかけてくれた本は何冊かあったが、真民さんの詩集もそんななかの1冊。

 

 

ねがい//

ただ一つの

花を咲かせ

そして終わる

この一年草

一途さに触れて

生きよう

 

 

今//

大切なのは

かつてでもなく

これからでもない

一呼吸

一呼吸の

今である

 

 

ねがい//

風の行方を

問うなかれ

散りゆく花を

追うなかれ

すべては

さらさら

流れゆく

川のごとくに

あらんかな

 

 

昼の月//

昼の月を見ると

花を思う

こちらが忘れていても

ちゃんと見守っていてくださる

母を思う

かすかであるがゆえに

かえって心にしみる

昼の月よ

 

 

 

「ねがい」 坂村真民 サンマーク出版 

さかむら・しんみん 1909年- 2006年 詩人。「念ずれば花ひらく」は聞いたことがある人も多いでしょう。世界の人たちの共感を呼び、世界中に737基を超える詩碑が建てられているそうです。どの詩もやさしく、胸に入ってきます。「一人のねがいを 万人のねがいに──」。ちゃんとした願いだけが、ちゃんと届くのだと思います。

 

 

 

 

あっちゃんの入学式。

あっちゃんは一つ上のいとこである。1年生にしてはからだは大き目で、少しいかつい感じはしたが、大人みたいに穏やかな口調で話す、気持ちのやさしい子どもだった。


洋裁職人だった母は、入学のお祝いにとジャケットに半ズボンのスーツ、ワイシャツ、蝶ネクタイの一式をしつらえ、旭川のあっちゃんのうちまで届けに行った。でも、あっちゃんは、母の縫った服で入学式を済ませたあと、1カ月もしないうちに死んでしまった。脳腫瘍だった。



お葬式には、入学式のあとクラス全員で撮った記念写真の、あっちゃんの部分だけを四つ切に伸ばしたピンボケ気味の遺影が飾られた。真っ白なワイシャツに大き目の蝶ネクタイ、グレーのジャケットを着こなし、校章をつけた皺のない帽子を被ったあっちゃんは、額のなかで恥かしそうに笑っていた。喪服を着たおばさんが「大ちゃん、来てくれてありがとうね」と生まれたばかりの赤ちゃんにふれるときみたいなやさしさで、私の頭を何度も撫でてくれた。



私たち家族は、年に数回、母方の親せきが集まる旭川を訪れ、その都度、あっちゃんの家にも寄らせてもらっていた。私とあっちゃんは子ネコがじゃれるみたいにペタペタくっついて、仲良く遊んでいた。兄がいない私の、兄のような存在だった。

「おばさん、あっちゃん、どうしたの」
「天国に行っちゃった」
「天国ってなに」
「遠いところにあるんだ」
「あっちゃん、どこ行ったの」

まだ幼稚園に通っていた私にとって、生まれて初めての葬儀だった。おばさんやおじさん、父や母、親類たちは揃って、私に遺体を見せることも火葬場に連れていくこともしなかった。私はあっちゃんの家の小さな部屋で、年の離れた従姉たちにトランプを教わりながら、彼女たちにも「どこ行ったの」ばかり尋ねていたのだという。



「こんな服、いやだ」
そういって、だだをこねたら、バシッと頭を叩かれた。叩かれるのはいつものことだが、あのときの母の表情は、本当に怖かったのを覚えている。あっちゃんが一度だけ着た入学式の服のひと揃えを私の入学式で着てほしいと、あっちゃんのおばさんが送ってくれたのだった。


母は入学式の数日前に、私のためのスーツを仕立てていた。しかし、急きょあっちゃんの服を痩せっぽっちの私に合わせ、寸法を直すことにしたのである。私は自分のために縫ってくれた服を着たいだけだった。



入学式に撮った写真は、瓜二つといっていいくらい、あっちゃんによく似ていた。真っ白なワイシャツに大き目の蝶ネクタイにグレーのジャケット、校章をつけた真新しい帽子。

 

家の裏に雪が残っていたから、5月始めのことだったかもしれない。父と母と私と妹は鈍行列車で旭川に行き、あっちゃんの家に寄って、私の入学式の写真を、おばさんとおじさんに見てもらうことにした。


キャビネ版の写真の3列目に、あっちゃんと同じ服を着た私が、恥かしそうに写っていた。父も母も、おばさんも、おじさんも一言もしゃべらなかった。輪になって座った私たちの真ん中に置かれた私の入学式の写真に視線が集まった。大人たちが黙っていると、音のない言葉が、たくさん聴こえる気がした。



「来てくれてありがとうね」
帰り際、おばさんがいった。私はもう「あっちゃん、どこ行ったの」とは聞かなかった。その代わり、おばさんがどうして微笑んでいるのかを探るように、表情を見つめてばかりいた。

帰りの汽車で、父が、私と妹をさとすように、こう呟いた。
「あっちゃんの供養になったかな」
茶色に澱んだ石狩川が、車窓の向こう側に乱暴に流れていた。汽笛がボーッと鳴った。その音に負けないような強めの声で母がいった。
「駅に着いたら、みんなで、正直屋さんのラーメン食べに行こうね」

 

 

「子どもたちの日本」 長田弘 講談社

長田さんの詩を読むようになったのは、10年ほど前からだ。自分のなかの詩集といえば、茨木のり子さんで一つの時代が終わっていた。長田さんの詩集やエッセイ集を開くと、批判でも評論でもなく、それでいて穏やかなだけでもない意思が、紙面の余白に拡散されている。何度も反復し自分の中に取り込む作業は、いつも少しの痛みを伴う。

 

人は子どもから大人になるのではありません。

子どもとしての自分をそこにおいて

人は大人という

もう一人の自分になっていきます。

 

語る言葉としゃべる言葉とはちがいます。

語る言葉は自分を集約していく言葉。

しゃべる言葉は、自分を拡散していく言葉。

いま思い起こしたいのは、

しゃべる言葉ばかりがとびちる

日々の光景の中に

忘れられているこの国の語る言葉の

ゆたかさの伝統です。

 

 

「向こう」から来るもの。

〇日

新千歳空港には10時前に着いた。快速エアポートと地下鉄を乗り継ぎ、11:30、札幌市内のカフェでAさんとお会いする。

リュック一つという最小限の荷物で行ったというのに、Aさんが準備していた資料は厚さ10センチくらいのファイルの束。順番に資料の解説をうかがうと、おそらくは国内にない貴重な資料ばかり。少しの落胆はすぐに「おお…」という静かな歓喜に変わった。

 

昼食を挟み、打ち合わせを終える。資料をリュックに入れ、よいしょと背負ってホテルに入ったのは15時過ぎ。この人の意志をどれだけ伝えられるだろうか。ベッドで天井を仰ぎながら、不安になる。

 

札幌は、変わった。昔むかし、私たちが住んでいた頃はまだ、よそから来た人には誰もが親切で、会ってすぐに、腹を割って話せるような人が少なくなかった。よそ者が集まる開拓地では、それが人間関係の暗黙のルールでもあった。

それがいまや、お店の人は一様に不愛想になり、街を行き交う人の表情も冷めて見える。長らく続いた不景気のあとに訪れたインバウンド、新型コロナによる低迷。短い期間でお金や権力を手に入れたり、失ったりすると、安易に人を信用しない、そんな性格に変わっていくのだろうか。

 

夕食のあとでススキノのバーに立ち寄る。マスターは違う人になったが、自分たちが住んでいた頃からある老舗である。カクテルなどの洒落た飲み物はだめなので、エビス・ザ・ブラック。余談だが、何十年か前は、サッポロにも小瓶の「黒ビール」があって、ギネスに劣らない名酒と称された。特急の食堂車のメニューにも、必ずあったことを覚えている。

 

カウンターの右端に座る。中央で、40代くらいのおねえさんたち2人が、食べ物の話題で盛り上がっている。

 

「1年以上かかったんだ、524種類」

「524種類?」

「映画と同じ、524種類」

「全部、自分で考えて、全部、自分で作ったの」

 

「映画と違うのは、全部、自分で考えたレシピってこと」

「毎日?」

「毎日だよ」

「全部、自分で食べた?」

「食べきれないときは、職場のみんなにお弁当にして持って行った」

 

「すごいね」

「すごいでしょ」

 

スマホで撮った料理を2人で眺めながら、楽しそうな会話が続いている。スマホを持つ彼女と目が合った。

 

「ご覧になります?」

「はい」

 

スマホに収められた料理の数は、確かに524。ナンバーがふってある。1日も欠かさず、足掛け2年にわたる挑戦だったそうだ。

 

「どうして、こんなこと、始めようと思ったのですか」

「やり遂げたあと、私に、何がやって来るのか知りたかったんです」

「ほかに、期待はせずに?」

「はい、そうです」

「それで、何が、来ましたか」

「…」

 

しばしの沈黙のあと、彼女は正面を見据えて、こう言い切った。

「私に『できた』ということです。それが『来た』ものです」

少しさびしくなったススキノの夜。素敵な物語が準備されていることもある。

 

 

 

「JULIE & JULIA」   2009年 米   監督:ノーラ・エフロン

彼女たちの会話に出てきたのは、この映画。1960年代に出版したフランス料理本で人気となった料理研究家ジュリア・チャイルド(Julia Child)と、彼女の524のレシピを1年で制覇しようとブログに書く現代のジュリー・パウエル、二人の実話を基にした作品。ジュリア・チャイルドを演じたメリル・ストリープゴールデングローブ賞・主演女優賞を受賞した。

 

 

眼は遠くを、足は地に。

〇日

スーパーで1週間分の買い出し。久々に、パイナップル(切り分けされているもの)を買う。

母がまだ元気だったころ、毎週、施設(グループホーム)にもっていったことを思い出す。自分とカミさんと母の分を、5、6切れにしたものをタッパに入れていく。機嫌のいい日は、職員さんとエレベーターの前で待っていて、ドアが開くと、ウワッと大きな声を出し、手をパーにして私たちを驚かした。全然驚かないのだけれど、ウワッといって両手を広げ、驚くふりをした。

 

部屋でタッパを開くと、ひとーつ、ふたーつ、みーっつと数を数えて3等分。そのあと必ず、自分の分を一つ少なくより分け、一つ余計にカミさんに渡して「食べなさい」といった。

認知症になってもなお、母親というのは自分より一つでも多くのものを、分け与えようとする生き物なんだ。そんなふうにやさしくなりたいと思ってきたが、なかなか難しい。

 

 

〇日

知人に何冊かの新刊をすすめられるが、買うきっかけがない。本棚にある本の再読、再再読だけで、あと何年かかるだろう。古い作品が好きなのではない。新しいものと古いものとを比べると、どうしても後者が先になってしまう。

 

仕事とはいえ、これまで国内外で1500以上の家を拝見する機会があった。スタイリッシュに見えるハウスメーカーの「商品」や流行のスタイルの多くが、数年後、ほかのどの家よりみすぼらしく見えることが少なくなかった。反対に、住んでみたいと憧れる家の多くは、100年以上も前に建てられた家であった。

 

「計画を立てるには、歴史観を持たなければできません」

 

建築家の浅田孝さんの言葉である。10年後の計画をつくるなら、少なくとも30年前までさかのぼって知りなさい。20年後の計画をつくるなら、少なくとも50年までさかのぼって知りなさい、というのである。

これまで生きてきた人の営み、土地や文化の堆積を知ることなしに、将来への投資などはできない、という意味にとらえることもできる。流行にとらわれず、これまで継承された暮らしの細部、家の有様を学ぶことだけで、普遍的ともいえる家のかたち、暮らしの本質が見えてくる。うっすらとしか見えていないとしても、何も見えていないことより価値はある。

 

社会人になって初めてお世話になった上司のAさん、仕事で多く関わったB教授からも同じようなことを教わった。お二人とも「一つの専門分野に関わる際には、まずは自分の背丈くらいの本を読め」というのであった。それで終わりではなく「そうして初めて入り口に立てる」というのが共通した教え。大きな仕事にのぞむ際には、数人分の背丈を越える本を読んだうえで、めざす世界に分け入った。悲しいことに、見えてくるのは壁ばかり。

 

 

〇日

テレビで、スポーツ選手の話題を取り上げていた。きれいな人だなあと、思わず振り返る。競泳女子の一ノ瀬メイさんという人であった。京都府出身で、イギリス人の父と日本人の母を持つ。生まれつき右腕は左腕の半分くらいの長さしかない。子どものころから、人と違う扱いを受けてきた。

「小学生の時に、地元のスイミングスクールに入ろうとしたら断られたんです。もし、その時にスクールに入って健常の子たちと一緒に泳げていたら…」

それでも、パラリンピックをめざし、リオ2016パラリンピックに出場した(2021年10月末に現役引退)。

 

「眼は遠くを、足は地に」

 

元国連事務次長・明石康氏の言葉を大切にしているという。競技の世界でも政治、文化、どんな世界でも、大切にできそうな言葉。

なかなか遠くは見えてこないが、せめて、しっかりと足は地に。

 

 

「スノーマン」。

毎日眺めているはずなのに、狭い庭のかんばせの移ろいにさえ気づかない。昨日まで雪があり、屋根からの氷柱がタタタと滴になっていたのに、今日は湿り気たっぷりの黒い土がのぞいている。時間はこうして、静かに、速く、雪のように溶けて流れていく。

 

子どもたちが小さな頃、繰り返して観たアニメに「スノーマン」という作品があった。導入部でデヴィッド・ボウイが登場するバージョンで、彼が作者の熱烈なファンだったことはあとで知った。同じ作者の「風が吹くとき」が映像化されたときにも主題歌を歌っている。



――ある朝、男の子が目を覚ますと、窓の外は一面の銀世界。

男の子は雪だるまを作り、その夜、時計の針が12時を指したとき、雪だるまは生命を得る。

男の子と雪だるまは家を抜け出し、一緒になって、森や海の上を飛び、雪だるまたちのパーティ会場にも行って、サンタクロースからマフラーをプレゼントされたりする。

再び空を飛んで自宅へ帰った男の子は深い眠りにつく。

翌朝、目が覚め、パジャマのまま急いで外に駆けていくと、溶けて消えた雪だるまのあとだけが残されている…

というだけの短いお話である。

 

We'rewalking in the air

We'refloating in the moonlit sky

Thepeople far below

Aresleeping as we fly

 

僕らは空を歩いてる 

月夜の空に浮かんでる 

はるか下では 

みんな眠ってる 

僕らは飛んでいく

 

物語にはセリフはなく、空の旅のところでかかる"Walkin in the air"のボーイソプラノが美しい。風景も、山や海に息づく生命の生命もすべて、天から俯瞰しているかのようだ。

 

男の子は、たった一晩の間に、出会いと「死」を体験する。物語に言葉はほとんどないが、生命とか存在とか、こんなに抽象的なことが、具体的に表現されている気がするのはなぜだろう。「在ること」と「失われること」、あるいは「生」と「死」。これら対極にあるもののせめぎ合い、整合性のなさは、どんなに大量の活字をもってしても説明することは難しい。雪に溶け、消えゆくような「静かさ」だけが、人の魂に強く、深く訴えることができるのかもしれない。

 

 


作・絵: レイモンド・ブリッグズ

出版社: 評論社

 

 

最後の言い訳。

音楽が嫌いな人、というのはおそらくいない。ジャズやクラシックが好きだというと少し高尚に見えることもあるが、そんなことは全くなくて、演歌の好きな人にも品格の高い男や女はたくさんいる。

好きな音楽には、その人の還る場所が準備されている。着地点のような場所でもあり、そこには、その人でなければ知り得ない記憶の深い海がある。魂との邂逅の場といってよいのかもしれない。


長らくYoutubeなど無縁と思っていた。最近になってYoutubeを貼れる機能を初めて知った。

検索すると好きだった音楽がザクザク出てきて、仕事の終わったあとなどにイヤホンで聴くことが多くなった。

目を閉じて映像で浮かぶのは、歌詞の世界ではない。曲を聴いていたときの記憶の中の、自分のいる場面。時間の流れが逆流したり、滞ることで生き直すための力を得ることもある。


※Tondo( Manila),  Philippines.
 

※Negros Island, Philippines.
 
NGOの一員として、マニラのスラム街、ネグロス島の子たちの教育支援を進めていた。が、一つのプロジェクトが進むたび、さびしさやむなしさに包囲されるばかりの自分がいた。
 
東南アジア最大のスラムと呼ばれるマニラ「トンド」地区での仕事を終えた夕刻。一人、ぼろ雑巾みたいによれ切った身体を引きずり、通りかかったホテルのカフェに入った。

ほかに客はいなかった。フロントの女性が私の顔をちらっと見て、吹き抜けの真下にあったピアノに進んで蓋を開け、ゆっくりとある曲を弾きはじめた。
イントロの一音一音が記憶の扉を静かにノックをする、そんな感じがした。泥と埃、汗にまみれた子どもたちの笑顔がモノクロ映画のようによみがえってきた。
 
自分の手足、額や頬の汗や汚れも拭えぬままでいた自分に、はたと気付いた。こんな自分でも旋律に混じっていける、そんな弾き方だった。煙ったゴミの山の風景が、すごい速さでうしろに流れていった。
 
ピアノを弾き終えて振り向いた彼女に、こんなにきれいな曲があるのですね、といって礼をいい、曲の名を尋ねた。
"Hideaki  Tokunaga, 
Saigo No Iiwake"と彼女はいって、フロントの奥へと消えていった。
 
 
 

 

過去を夢見る。

繰り返し見る映画の中に「野いちご」(1957 スウェーデン)がある。監督はイングマール・ベルイマン。「叫びとささやき」に次いで好きな映画だ。

 

物語は、夢と現実が交わりながら展開する。主人公の老医師イーサクが旅の途中で、老母の家を訪ねる場面があった。

78歳のイーサクが96歳の老母の額にそっとキスをする。老母はほとんど表情を変えずに「おまえの好きなおもちゃを用意しておいた」という。カメラはゆっくりと老母の足元に移動し、イーサクが子どものころに遊んでいたおもちゃを映し出す。

旅の終盤、イーサクは夢を見る。かつての婚約者サーラが鏡を持ち出し「あなたはもう老人なのよ」と語り掛ける。裁判のような場面では「人生の落伍者」の烙印が押されてしまう。

 

「私への罰は?」

「孤独です」

エンディング。
イーサクは昔のことを思い出している。野いちごの森からサーラが現れ、イーサクを海辺に連れて行く。そこでは父は静かに釣糸をたれ、傍では母が本を開いていた──。旅は老人のイーサクに他者との関わりの意義を再認識させ、人生の幸せを感じさせて終わる。

 

不要なモノは思いきって捨ててきた。前回の掃除では、押し入れの奥から見つかった古い娘のおもちゃやおんぼろになった母のカバンを捨てた。迷いがなかったといえば、うそになる。しかし、少しの躊躇のあとで、ゴミ袋に入れてしまう。イーサクの母親はきっと、78歳の息子の思い出を断ち切ることができず、おもちゃを残していたに違いない。
 
 
認知症がすすんだ母のことを案じて、A医師が、こんな言葉を掛けてくれたことがあった。
 
「老人は過去を夢見るものです」

人にとって捨てがたいモノが、過去の夢の証という場合もある。モノの整理は確かに大事だが、そのモノが家のどこかにある、というだけの安心感もある。その安心感を捨てた後の再出発もあれば、その人の生の根源を断ち切ってしまうこともある。過去の夢を見つつ生きることもまた、生きることの一部かもしれない――そんな話であった。
 
A医師は、私たち家族の不安な気持ちを察してか、こう続けた。「それでも、あなた方が孤独を感じてさびしいときは(母に限らず、誰でも)そばにいる人に、やさしくしてあげなさい」。
 

※「野いちご」  1958年のベルリン国際映画祭金熊賞、1959年のゴールデン・グローブで外国映画賞を受賞。同年のアカデミー賞脚本賞にノミネートされた名作。“あなたの映画は常に、私の心を揺さぶった。作品の世界観を作り上げる巧みさ、鋭い演出、安易な結末の回避、完璧なほど人間の本質に迫る人物描写において、あなたは誰よりも卓越している”=スタンリー・キューブリック(1960年、ベルイマンに宛てたファンレターより)=
 
 

休日に開く本=佐野洋子/光野桃/山田太一。

 
 
洋子さんの「100万回生きたねこ」を初めて読んだのは、40年以上も前のことである。安アパートでの学生生活は貧しかったが、住んでいたのは港の見える丘公園まで徒歩20分の閑静な住宅街。山手の通りもドルフィンも休みの日の散歩コースだった。
 
しかし、現実といえば、山下埠頭のバイトで座骨神経痛になって、痛い足を引きずりながらバイト先と大学を行ったり来たり。未来なんて、どこにあるんだろう。そんなことばかり考え、呆けた日々を送っていたとき、ある人にいただいたのがこの本。100万回生きても、いのちはいつか、終わるんだと思ったら、途端に、泣けてきた。
 
 
エッセイ集を読むようになったのは、洋子さんが亡くなってからだ。乳がんだったが、洋子さんは死ぬ気まんまんだった。でも、ほんとは100万回ではなく、あと1回くらいは生き直してやろうと、考えていたかもしれない。それとも、すでに、ねこに生まれ変わって、そこらを散歩しているのかな。
 
 

 
調べものをしていて、昔のノートをめくったら、素敵な言葉が眼に入ってきた。メモしたまま何年も忘れていた。言葉を辿って、作者を調べると、光野桃さん。本棚の奥に「実りの庭」があった。エッセイ集である。
 
できないことをやろうとすると、ひずみが出る。
(略)
しかし五十の半ばを迎えたとき、わたしの中で何かがカチリと切り替わった。もう努力しない。無理しない。気合入れない。
(略)もう傷つきたくないんです。子どもの頃からたっぷり傷ついてきたのだもの。これ以上、尻を叩いて生きたくない。
 
うんと愛して甘やかして、飴玉のようにまるく優しく、自分を撫でて生きたいの。そう思ったとき、かつて感じたことのない解放感が訪れた。細胞と細胞の間が開いて、まっすぐ風が吹き通る。深い呼吸ができるようになった。
 
言葉がすっと身体に入り込んでくる。どのページを開いても、フォントが静かに呼吸をしていて、見出しは水彩画みたいに、澄んで見える。
 
貝殻ひろい、オカアサン、青薔薇の皿、うちの色、爪、野の花のひと、カナリア色の玄関扉、薔薇の振袖…。
 
いい文章が身体の中に入ってくると、いい空気を胸いっぱい吸い込んでみたいに、気の巡りがよくなる。
 
 

 

幼い頃に両親を亡くし、中年に差し掛かって、離婚。仕事も友人関係も、何もかもがうまくいかない。そんな男が、亡くなったはずの父や母、同じマンションに住む亡霊など「異人たち」との出逢いと交流を通じて、魂を揺さぶられ、中年以降の生きる意味を模索していく。

 

原作は山田太一岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」の脚本家といえば、知る人も多いはず。先日、亡くなったばかりだった。映画化したのは大林宣彦監督。「転校生」や「時をかける少女」など名作が多く、大好きな監督の一人。この大林さんもすでに旅立っている。

 

つらく悲しい現実から「異世界」に入り込み、そこで出会った異人たちとの別離が、魂の浮遊と居場所を示唆している。いったん別れた彼らと、もう一度、別れる。「再生」である。
 
読み返すたび、どんな人生になっても必ず「生き直すこと」ができる、ということを教わる。とてつもなく切ないが、読後、少し力が湧いていることに気づく。
 
父や母の面影にふれたくなったとき、この本を開く。

 
 
 

「西の魔女が死んだ」=魂は成長したがっているのです。

懐かしい感じがする陶器の四角いシンク。調理台にも使える小さめのダイニングテーブル。少し傷んだ木枠とアンティークなガラス窓。ベッド横のランプ台としても使えるナイトテーブル。調理もできるし、暖かな火も楽しめるクックストーブ。畑に広く突き出したサンルームと、そこからつながるキッチン。玄関ドアに使われているバラの模様のガラス――。

梨木香歩作『西の魔女が死んだ』は英国人のおばあちゃんと不登校になってしまった女の子「まい」が、森のなかでの暮らしを通して、心通わせる静かな物語。これまでに二度、読んだ。2008年に公開された映画では、さまざまな生命が息づく森のなかで、ひっそり佇むおばあちゃんの家や家具、インテリまでも再現され、強く印象に残っている。映画のなかでのおばあちゃんはシャーリー・マクレーンの娘で、幼少期を日本で暮らした経験を持つサチ・パーカー。知的で全身から溢れ出る温かさが、作品全体を優しく包み込む。

 
 
「西の魔女」は、まいとまいのお母さんが、おばあちゃんのことをこっそりと呼んでいる名前。野いちごを摘むところから始まるジャム作り。「真っ赤なルビーのような野いちごの群生」が目に浮かぶ。
 
毎回違ったハーブの入った紅茶、庭からレタスとキンレンカの葉を取ってきて作るサンドイッチ。香りをつけるために、洗濯したシーツをラベンダーの植込みの上でぱっと広げて乾かすことやイモムシを除けるためにハーブを煎じた水を草にかけたり、夜ぐっすり眠れるように、玉葱を寝室に置くことなどなど。たくさんの植物や水、光、風といった自然と人との関わりが細やかに描かれる。
 
おばあちゃんはいつも、孫娘のまいを見守り「日常をしっかり生きることは、生きる強さを持つこと」と教え込む。まいはおばあちゃんとの生活を通して、生きるための基礎、魂の在り処、死ぬことの意味までも学んでいく。
 
「魂は成長したがっているのです」という言葉が、読む者、観る者の魂にまで刻まれていく。基礎トレーニングは「早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする」ことである。おばあちゃんは、まいにこんなことも言って聞かせる。
 
自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。


 

ある日は、まいを抱いて「おばあちゃんが信じている事を聞かせましょう」と魂が身体から離れて自由になる「死」について語る。「身体と魂があって、まいなんですよ」というおばあちゃんに、まいは「身体が消えてなくなると言うのが怖い」と怯えたりもする。そんなときにも、おばあちゃんは毅然として「魂は身体を持っているから色々な経験をし、成長ができる。魂は成長したがっているのです」とそっと言い聞かせる。


まいが何かを話しかけるときのおばあちゃんの口癖は、
「I know」
このやり取りは何度も登場するが、まいの存在そのものを決して否定しない象徴的な言葉でもある。
 
両親が別の街に引っ越しすることが決まり、おばあちゃんの家を離れ、2年が経ったある日。まいは、おばあちゃんの死と向き合ことになる。駆け付けたおばあちゃんの家で偶然見つけたおばあちゃんからのメッセージには、こう書いてあった。
 
ニシノマジョカラ
ヒガシノマジョヘ 
オバアチャン 
タマシイダッシュツ 
ダイセイコウ

死について語り合うシーンは、この場面の伏線だったことがわかる。まいとの約束を忘れず、最期の瞬間までまいに優しくあり続けたおばあちゃん。まいは、誰もいなくなった台所に向い「おばあちゃん、大好き!」と叫ぶ。涙が後から後から流れてくる。


大きな事件も起きず、起伏も少なく推移する物語。読み終えたあと、あるいは映画は観終ったあとにも、長い間、心のなかに温かい何かが残照となって輝き続けるのがわかる。


おばあちゃんの口癖だった、
「I know」

それはどんなことがあっても「私はあなたから逃げない、ずっとここにいるよ」という「魔法」の言葉だったのでしょうね。
 
 

簡素に、簡素に、さらに簡素に。

「ウォールデン  森の生活 (上)  」ヘンリー・D・ソロー   小学館文庫  今泉吉晴 (翻訳)

 

 

「質素な生活こそが、贅沢な生き方」。ソローは、そういって、森の中で思索を続けた。170年以上も前、いまと比べ、モノなどないに等しい時代、思索の日々を記録した「森の生活」。目を閉じ、ぱっとどのページを開いても、そのときの自分の生き方にヒントを与えてくれる1冊。

 

マサチューセッツ州ミドルセックス郡コンコード(Concord , Middlesex County, Massachusetts)。ボストンの北西20数キロにある小さな町から、2キロほど離れたところ。ハーヴァード大学を卒業したソローは、ウォールデン湖のほとりに小屋を建て、質素な暮らしを始める。1845年の春、27歳のときのことだった。

 

職歴といえば、教師や測量の仕事、植木職、農夫、大工、鉛筆製造人など日雇いに近い仕事ばかり。この本は2年2か月、湖畔で過ごしながら、内なる自分と自然、文明社会を見つめた記録でもある。

 

私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。

 

今を生きたい。そのためだけに、生きる勇気、あるいは贅沢。お金や地位、モノを得るためではなく、簡素に暮ら し、生活を小さくする必要があると考えていたソローは「Lifestyle  of  Health  and  Sustainability」を提唱する。小屋は「かなり大きな森の端に位置するリギダマツとヒッコリーの若木の明るい林の斜面」に建てられ、一番近い隣人の家とは1マイルも離れていた。

 

生きるのに大切な事実だけ に目を向け、死ぬ時に、実は本当は生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮 らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。

 

 

小屋とはいうものの、ソローは「Cottage」ではなく「House」という言葉を使っている。「千個の古レンガで基礎を作り、レンガ造りの暖炉に漆喰塗りの壁からなる本格的な家」だった。部屋は、台所、寝室、客間、居間を兼ねており「暖炉こそ、家の最も大切な部分」と考えたソローは入念に暖炉をつくり、冬の夜を炉辺で心ゆくまで楽しんだ。

 

暖炉を持ってはじめて私にも、自分の家に住む実感が湧きました。人は家に安全を求めるだけでなく、暖を求めるようになってこそ、本当に住んだといえます。

燃える暖炉の炉床から薪を離して火の強さを調節する古い薪置き台を手に入れていました。

自分で作った暖炉の煙突の内側に煤(すす)が着くのが楽しみで、はじめて 味わう歓びと満足で、暖炉の火を勢いよく燃え上がらせました。

 

 

畑も耕した。インゲン、ジャガイモ、トウモロコシ、エンドウなどの畑を「魂を大切にして今を生きる、私の生きるための方法の実験場」と書いている。午前中に畑仕事をし、午後からは散歩をしたり、友人宅を訪問。中国の古典や旅行記、最新の科学書まで、読書も欠かさなかった。

日々の暮らしは

・食物

・避難場所(住居)

・衣服

・燃料

の4つ以外はほとんど不要だった。少しの現金は必要だったが、時々、地の測量、大工仕事などをして収入を得て、少し暮らせるようになると、また思索の日々に戻るのだった。

 

 

著書では、家計簿についてもふれている。畝立て代、鍬代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、カラス避け用の ひも代、収穫のための馬と荷車代などでお金が出ていき、収入といえば豆、馬鈴薯などの売り上げ。  

 

自分を自然の小さな部分と感じて、不思議な自由を味わいました。(中略)私は今宵の自然のすべての要素(雲り空、寒さ、風など)が私に親しくしてくれると、自分でおかしくはないかと思うほど強く感じました。簡素に、簡素に、さらに簡素に生きましょう! 

 

刻々と移ろう季節や自然の営みを観察し、自分の「内なる音楽」に耳を傾け「生きるとは、私だけの実験」と考えたソロー。他人と比較するのではなく、自分だけの人生を生きることに意義を見出す暮らしでもあった。

 

私はどんな人でも、私の暮らし方で暮らして欲しいとは思いません。(中略)私は誰もが最大限に自分を大切にして(中略)自分 の 生き方 を探すよう願っています。

 

 

19世紀半ばのアメリカは、電信というコミュニケーション技術が生まれ、それまでのゆったりとした生活リズムが、大きく転換した時代でもあった。彼が唱える自然への憧憬や文明批評、自己との向き合い方が古びて思えないのは、アナログからデジタル、固定電話からスマホ、手紙からSNS、書籍からインターネット、人間の思考からAIへと変貌を遂げる現代社会に、そのまま重なって見えてくるからだ。

 

あなたの歩調が仲間の歩調と合わないなら、それはあなたが、他の人とは違う心のドラムのリズムを聞いているからです。

私たちはそれぞれに、内なる音楽に耳を傾け、それがどんな音楽であろうと、どれほどかすかであろうと、そのリズムと共に進みましょう。

 

内なる音楽と共に過ごせる人は偉大だ。自分に酔うのではない。常に、自分との距離を一定に保ちつつ、自らを客観視するエネルギー。

 

 

小屋には質素なベッドと食卓、机とランプ、椅子。一つは思索のために、二つめは友のために、三つめは社会のためにと用意された三つの椅子であった。そうした配慮にも、自然を凝視しながら、人間との交わりをないがしろにしなかった彼の姿勢が見て取れる。

 

人は暮らしを簡素にすればするほど独り居は独り居でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でないとわかります。

 

幸福というのは蝶に似ている。追いかければ追いかけるほど遠くに去る。だけど、あなたが気持を変えて、ほかの事に興味を向けると、それは こちらにやってきて、そっとあなたの肩に止まるのだ。 

 

身体や心を動きをいったん止めて、自分が感じることを観察すると、これまで見えなかったものが見えてきたり、聞こえなかったことが、聞こえてくることがある。ソローが自らに準備したのは、孤独のための椅子であったかもしれない。意図された孤独を経ることでしか体現されない、自分への誠実さのかたちもある。

 

 

「森の生活 (上)   ウォールデン」   H.D. ソロー  岩波文庫 飯田実 (翻訳)

 

検索すると絵本になったものなど、いくつもかの種類がある。本棚にあるのは、上記2つの出版社のもので、初めて読んだのは岩波文庫。前者訳者の今泉さんは「ざんねんいきもの事典」などで知られる今泉忠明さんの実兄。飯田さんの訳は格調が高く、今泉さんの訳は現代風で読みやすい。

 

小さな生活。

〇日

一つの仕事を終えると闇の世界【Rabbit Hole】から抜け出し、現実世界に戻ってくるような気持ちになる。どんなにささいな仕事にだって、物語があって新たな発見がある。仕事の最中はうんざりすることの連続だが、物語から抜け出すと少しさびしい。勝手なものだ。

 

〇日

わが家の「小さな生活計画」の一環として、2000CCのSUVを売却し、軽自動に乗り換えてから8年になる。以前は、タイヤ交換や車検のたびに10万円を超えるコストがかかっていたが、いまはタイヤ交換が4万円前後、車検は以前のほぼ半額で済む。SUVの燃費はリッター14キロ(平均)ほどで、ディーラーからは自社内最高レベルとお褒めをいただいた。いまの軽自動車は夏で22キロ(長距離だと26キロ カタログ値を超える)、冬17キロ程度。どちらもAWDなので、このくらいで合格点。今度の車検で、クルマはやめよう、と考えるようになった。バスや電車の移動も嫌いじゃないし、行けないところには行かなければよい。

 

〇日

高野悦子二十歳の原点」を読み直す。1971年発刊だが、いままで「はたちのげんてん」と思い込んできた。正確には「にじゅっさいのげんてん」なのだそうだ。

――独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春を駆けぬけていった一女子大生の愛と死のノート。学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想を砕かれ、愛に破れ、予期せぬうちにキャンパスの孤独者となり、自ら生命を絶っていった痛切な魂の証言。明るさとニヒリズムが交錯した混沌状態の中にあふれる清冽な詩精神が、読む者の胸を打たずにはおかない(新潮社HP)。

若い時代、何度も読んだ。ほとばしるような無垢な生命体が時代に翻弄され、はかなく散っていく。こんな生き方があることに感動するというより、驚くほかはなかった。身体が震えた。自分は、どう自分と向き合い、どう闘っているのか。不安になると手に取ってきた1冊。

 

〇日

年末の大掛かりな掃除はやめにして、毎日、数分程度の「小掃除」を日課にしている。固く絞った雑巾に汚れが付くと、やったあと思うと同時に、いままで気づかず、ごめんねという気持ちになる。あくまで自分のために割り切った掃除だが、身の回りを清潔に保つことは、気持ちの安定をはじめ、いろんな効果があることが心理学・社会学的にもわかってきてきたようだ。

アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した「Broken Windows Theory(割れ窓理論)」は「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」という話。地域に荒れた家が一軒あるだけで、周辺はやがてスラム化していくという事例は、世界中で珍しくない。床に落ちた1つ2つのゴミを放っておくだけで、ゴミ屋敷化するまで時間がかからない、という話と同じ。

ニューヨークのジュリアーニ元市長は、街や地下鉄などの落書きを取り締まり、結果として、凶悪犯罪の件数までも激減させた。スティーブ・ジョブズがアップルに戻ってきて最初にした仕事は、職場の「環境」を変えることだった。直後に会社が急成長を遂げたことは有名な話。ディズニーランドでは、施設内のささいな汚れや傷も、見つけ次第、清掃、修繕を徹底し、従業員だけでなく、来客のマナーまでも向上させている。

日本では古くから「掃除は神事」といわれてきた。少々面倒でも、毎日ほんの数分、神さまのために、自分のために、歯を磨くみたいに掃除をする。それで、何かいいことが起きればお得な話。

先日、掃除のついでに、仕事場、玄関、リビング、洗面所、台所などの照明をLEDに交換した。まとめて通販で買っておいた。

3.11の震災以降、毎年、(3.11の)前年比20%台の光熱費削減を実践してきた。しかし、最高でも前年比29%減で、3割以上の削減が難しかった。猛暑、厳寒の月でも電気代は9000~15000円程度で済んでいる。身体に心に、ダメージを与える節約は邪道だ。昨年、ようやく30%減を実現できたと思ったら、値上げラッシュ。いつまで経っても、家計は楽にならない。

 

繰り返しだけに見える小さな生活だけれど、そこには時間や生命の営みの、数えきれない物語が折り畳まれ、重なり合っている。大きさや強さよりも小さいことや弱いこと、速度より深さを、見えるもののみならず、目に見えないものにまで、生活の襞や余白が見えるようになってきたら、日常って案外、幸福で満ちていることに気づくのかもしれない。

 

 

「悲しい」ことは「考える」こと。「考える」ことは「願うこと」。

本棚にある河合隼雄さんの本を数えると31冊。1冊1冊を、丁寧に、繰り返し読んできた。「子どもの本の森へ」は詩人・長田弘さんとの対話集。ここでの長田弘さんは、詩人というより鋭い社会学者みたい。久々に本を開いてみる。途中、随所で「略」あり。

 

@7ページ

長田 しなかったもの、しそこなったもの、つい忘れてそれっきりのもの、そういうもののなかには、じつは、自分で気づいていない豊かなものがいっぱいあるんだってことを、忘れたくないですね。

 

@102ページ

河合 社会へ出ていくときに、個を失ってしまったら、そのなかにべたーっと入り込んでしまいます。個というものをもって社会のなかに入っていかなければならない。そんなことは魔法を使わなければできないわけです。個といいながらみんなとつながるというのは矛盾ですから。 ふつうは、大人になれないから、困って、子どもの世界に逃げこむのが魔法だと思われていますが、まったく逆です。

長田 そうなんです。魔法は逃避ではなくて、より豊かに社会あるいは世界に参加できる方法なんですね(マーガレット・マーヒー『足音がやってくる』『めざめれば魔女』について)。

 

@155ページ

長田 ゆっくりめくっていくうちに、絵本が手がかりになって、自分のなかにどう言ったらいいかな、もう一つの時間ができていく。あるいは、読み終わって、時間が経つうちに、やっぱり絵本が手がかりになって、記憶のなかにもう一つの時間ができていく。

人生全体から見たら、絵本を読む時間、読んだ時間なんてほんのちょっぴりで、とうてい長い時間なんかじゃないのに、のこるのです。確かな時間として、そこだけははっきりした時間になってのこる。

ですから本であっても、絵本によってのこるもの、絵画や音楽によってのこるものにずっと近いですね。子どものとき絵本の世界とそういうふうにして付きあったか付きあわなかったかで、それから後の、人生の時間の寸法はずいぶん違ってくるのではないかということを考えるんです。

 

@180ページ

河合 現代人はどんな事象に対しても「なぜ」と問いかけ、その答えが簡単に得られ、それによって安心するというパターンにはまりこみすぎているということです。しっかりと悩み続けることにこそ人生の意味があると知るのです。大人も子どもに負けぬように、もう少し悩みつづけてもいいのではないか。子どもが悩んでいるのに、大人がすぐ「解答」を求めようとするのは、大人のあさはかな思いこみだと思いますね。

 

 

再読を繰り返し、多くをメモした本でもあった。いたるところに線を引き、ページの端を折り、ぼろぼろになったので、保存用として2冊目を買った。138ページにある長田さんの言葉が、やさしい温度で身体の奥まで入り込んでくる。下記下段で述べられる「絵本」は、仕事でも学びでも、家族や友人との関係、成功や挫折など、他のなんにでも置き換えることができそうだ。

 

長田 「悲しい」というのは「考える」ことだ。「考える」というのは、「一生懸命願うこと」だ、「一生懸命願う」というのはどういうことかといったら、「本当にそう思うこと」だ、という。そこまでいって、ふっと、悲しみが消えるんですね、最後に(136ページ)。

 

長田 絵本は、物語にゴールがあってそこに到達するというんじゃなくて、ぐるっとまわって最初にもどる。けれども、最初と状況は違わなくっても、もうすでに自分は違う自分になっている(138ページ)。

 

 

 

 

「子どもの本の森へ」(岩波書店) 河合隼雄長田弘

=「子どもの目」には見える真実に大人はまったく気づかない=これがこの本の帯の文章(表紙部分)。