言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

休日に開く本=佐野洋子/光野桃/山田太一。

 
 
洋子さんの「100万回生きたねこ」を初めて読んだのは、40年以上も前のことである。安アパートでの学生生活は貧しかったが、住んでいたのは港の見える丘公園まで徒歩20分の閑静な住宅街。山手の通りもドルフィンも休みの日の散歩コースだった。
 
しかし、現実といえば、山下埠頭のバイトで座骨神経痛になって、痛い足を引きずりながらバイト先と大学を行ったり来たり。未来なんて、どこにあるんだろう。そんなことばかり考え、呆けた日々を送っていたとき、ある人にいただいたのがこの本。100万回生きても、いのちはいつか、終わるんだと思ったら、途端に、泣けてきた。
 
 
エッセイ集を読むようになったのは、洋子さんが亡くなってからだ。乳がんだったが、洋子さんは死ぬ気まんまんだった。でも、ほんとは100万回ではなく、あと1回くらいは生き直してやろうと、考えていたかもしれない。それとも、すでに、ねこに生まれ変わって、そこらを散歩しているのかな。
 
 

 
調べものをしていて、昔のノートをめくったら、素敵な言葉が眼に入ってきた。メモしたまま何年も忘れていた。言葉を辿って、作者を調べると、光野桃さん。本棚の奥に「実りの庭」があった。エッセイ集である。
 
できないことをやろうとすると、ひずみが出る。
(略)
しかし五十の半ばを迎えたとき、わたしの中で何かがカチリと切り替わった。もう努力しない。無理しない。気合入れない。
(略)もう傷つきたくないんです。子どもの頃からたっぷり傷ついてきたのだもの。これ以上、尻を叩いて生きたくない。
 
うんと愛して甘やかして、飴玉のようにまるく優しく、自分を撫でて生きたいの。そう思ったとき、かつて感じたことのない解放感が訪れた。細胞と細胞の間が開いて、まっすぐ風が吹き通る。深い呼吸ができるようになった。
 
言葉がすっと身体に入り込んでくる。どのページを開いても、フォントが静かに呼吸をしていて、見出しは水彩画みたいに、澄んで見える。
 
貝殻ひろい、オカアサン、青薔薇の皿、うちの色、爪、野の花のひと、カナリア色の玄関扉、薔薇の振袖…。
 
いい文章が身体の中に入ってくると、いい空気を胸いっぱい吸い込んでみたいに、気の巡りがよくなる。
 
 

 

幼い頃に両親を亡くし、中年に差し掛かって、離婚。仕事も友人関係も、何もかもがうまくいかない。そんな男が、亡くなったはずの父や母、同じマンションに住む亡霊など「異人たち」との出逢いと交流を通じて、魂を揺さぶられ、中年以降の生きる意味を模索していく。

 

原作は山田太一岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」の脚本家といえば、知る人も多いはず。先日、亡くなったばかりだった。映画化したのは大林宣彦監督。「転校生」や「時をかける少女」など名作が多く、大好きな監督の一人。この大林さんもすでに旅立っている。

 

つらく悲しい現実から「異世界」に入り込み、そこで出会った異人たちとの別離が、魂の浮遊と居場所を示唆している。いったん別れた彼らと、もう一度、別れる。「再生」である。
 
読み返すたび、どんな人生になっても必ず「生き直すこと」ができる、ということを教わる。とてつもなく切ないが、読後、少し力が湧いていることに気づく。
 
父や母の面影にふれたくなったとき、この本を開く。