言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

過去を夢見る。

繰り返し見る映画の中に「野いちご」(1957 スウェーデン)がある。監督はイングマール・ベルイマン。「叫びとささやき」に次いで好きな映画だ。

 

物語は、夢と現実が交わりながら展開する。主人公の老医師イーサクが旅の途中で、老母の家を訪ねる場面があった。

78歳のイーサクが96歳の老母の額にそっとキスをする。老母はほとんど表情を変えずに「おまえの好きなおもちゃを用意しておいた」という。カメラはゆっくりと老母の足元に移動し、イーサクが子どものころに遊んでいたおもちゃを映し出す。

旅の終盤、イーサクは夢を見る。かつての婚約者サーラが鏡を持ち出し「あなたはもう老人なのよ」と語り掛ける。裁判のような場面では「人生の落伍者」の烙印が押されてしまう。

 

「私への罰は?」

「孤独です」

エンディング。
イーサクは昔のことを思い出している。野いちごの森からサーラが現れ、イーサクを海辺に連れて行く。そこでは父は静かに釣糸をたれ、傍では母が本を開いていた──。旅は老人のイーサクに他者との関わりの意義を再認識させ、人生の幸せを感じさせて終わる。

 

不要なモノは思いきって捨ててきた。前回の掃除では、押し入れの奥から見つかった古い娘のおもちゃやおんぼろになった母のカバンを捨てた。迷いがなかったといえば、うそになる。しかし、少しの躊躇のあとで、ゴミ袋に入れてしまう。イーサクの母親はきっと、78歳の息子の思い出を断ち切ることができず、おもちゃを残していたに違いない。
 
 
認知症がすすんだ母のことを案じて、A医師が、こんな言葉を掛けてくれたことがあった。
 
「老人は過去を夢見るものです」

人にとって捨てがたいモノが、過去の夢の証という場合もある。モノの整理は確かに大事だが、そのモノが家のどこかにある、というだけの安心感もある。その安心感を捨てた後の再出発もあれば、その人の生の根源を断ち切ってしまうこともある。過去の夢を見つつ生きることもまた、生きることの一部かもしれない――そんな話であった。
 
A医師は、私たち家族の不安な気持ちを察してか、こう続けた。「それでも、あなた方が孤独を感じてさびしいときは(母に限らず、誰でも)そばにいる人に、やさしくしてあげなさい」。
 

※「野いちご」  1958年のベルリン国際映画祭金熊賞、1959年のゴールデン・グローブで外国映画賞を受賞。同年のアカデミー賞脚本賞にノミネートされた名作。“あなたの映画は常に、私の心を揺さぶった。作品の世界観を作り上げる巧みさ、鋭い演出、安易な結末の回避、完璧なほど人間の本質に迫る人物描写において、あなたは誰よりも卓越している”=スタンリー・キューブリック(1960年、ベルイマンに宛てたファンレターより)=