言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

簡素に、簡素に、さらに簡素に。

「ウォールデン  森の生活 (上)  」ヘンリー・D・ソロー   小学館文庫  今泉吉晴 (翻訳)

 

 

「質素な生活こそが、贅沢な生き方」。ソローは、そういって、森の中で思索を続けた。170年以上も前、いまと比べ、モノなどないに等しい時代、思索の日々を記録した「森の生活」。目を閉じ、ぱっとどのページを開いても、そのときの自分の生き方にヒントを与えてくれる1冊。

 

マサチューセッツ州ミドルセックス郡コンコード(Concord , Middlesex County, Massachusetts)。ボストンの北西20数キロにある小さな町から、2キロほど離れたところ。ハーヴァード大学を卒業したソローは、ウォールデン湖のほとりに小屋を建て、質素な暮らしを始める。1845年の春、27歳のときのことだった。

 

職歴といえば、教師や測量の仕事、植木職、農夫、大工、鉛筆製造人など日雇いに近い仕事ばかり。この本は2年2か月、湖畔で過ごしながら、内なる自分と自然、文明社会を見つめた記録でもある。

 

私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。

 

今を生きたい。そのためだけに、生きる勇気、あるいは贅沢。お金や地位、モノを得るためではなく、簡素に暮ら し、生活を小さくする必要があると考えていたソローは「Lifestyle  of  Health  and  Sustainability」を提唱する。小屋は「かなり大きな森の端に位置するリギダマツとヒッコリーの若木の明るい林の斜面」に建てられ、一番近い隣人の家とは1マイルも離れていた。

 

生きるのに大切な事実だけ に目を向け、死ぬ時に、実は本当は生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮 らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。

 

 

小屋とはいうものの、ソローは「Cottage」ではなく「House」という言葉を使っている。「千個の古レンガで基礎を作り、レンガ造りの暖炉に漆喰塗りの壁からなる本格的な家」だった。部屋は、台所、寝室、客間、居間を兼ねており「暖炉こそ、家の最も大切な部分」と考えたソローは入念に暖炉をつくり、冬の夜を炉辺で心ゆくまで楽しんだ。

 

暖炉を持ってはじめて私にも、自分の家に住む実感が湧きました。人は家に安全を求めるだけでなく、暖を求めるようになってこそ、本当に住んだといえます。

燃える暖炉の炉床から薪を離して火の強さを調節する古い薪置き台を手に入れていました。

自分で作った暖炉の煙突の内側に煤(すす)が着くのが楽しみで、はじめて 味わう歓びと満足で、暖炉の火を勢いよく燃え上がらせました。

 

 

畑も耕した。インゲン、ジャガイモ、トウモロコシ、エンドウなどの畑を「魂を大切にして今を生きる、私の生きるための方法の実験場」と書いている。午前中に畑仕事をし、午後からは散歩をしたり、友人宅を訪問。中国の古典や旅行記、最新の科学書まで、読書も欠かさなかった。

日々の暮らしは

・食物

・避難場所(住居)

・衣服

・燃料

の4つ以外はほとんど不要だった。少しの現金は必要だったが、時々、地の測量、大工仕事などをして収入を得て、少し暮らせるようになると、また思索の日々に戻るのだった。

 

 

著書では、家計簿についてもふれている。畝立て代、鍬代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、カラス避け用の ひも代、収穫のための馬と荷車代などでお金が出ていき、収入といえば豆、馬鈴薯などの売り上げ。  

 

自分を自然の小さな部分と感じて、不思議な自由を味わいました。(中略)私は今宵の自然のすべての要素(雲り空、寒さ、風など)が私に親しくしてくれると、自分でおかしくはないかと思うほど強く感じました。簡素に、簡素に、さらに簡素に生きましょう! 

 

刻々と移ろう季節や自然の営みを観察し、自分の「内なる音楽」に耳を傾け「生きるとは、私だけの実験」と考えたソロー。他人と比較するのではなく、自分だけの人生を生きることに意義を見出す暮らしでもあった。

 

私はどんな人でも、私の暮らし方で暮らして欲しいとは思いません。(中略)私は誰もが最大限に自分を大切にして(中略)自分 の 生き方 を探すよう願っています。

 

 

19世紀半ばのアメリカは、電信というコミュニケーション技術が生まれ、それまでのゆったりとした生活リズムが、大きく転換した時代でもあった。彼が唱える自然への憧憬や文明批評、自己との向き合い方が古びて思えないのは、アナログからデジタル、固定電話からスマホ、手紙からSNS、書籍からインターネット、人間の思考からAIへと変貌を遂げる現代社会に、そのまま重なって見えてくるからだ。

 

あなたの歩調が仲間の歩調と合わないなら、それはあなたが、他の人とは違う心のドラムのリズムを聞いているからです。

私たちはそれぞれに、内なる音楽に耳を傾け、それがどんな音楽であろうと、どれほどかすかであろうと、そのリズムと共に進みましょう。

 

内なる音楽と共に過ごせる人は偉大だ。自分に酔うのではない。常に、自分との距離を一定に保ちつつ、自らを客観視するエネルギー。

 

 

小屋には質素なベッドと食卓、机とランプ、椅子。一つは思索のために、二つめは友のために、三つめは社会のためにと用意された三つの椅子であった。そうした配慮にも、自然を凝視しながら、人間との交わりをないがしろにしなかった彼の姿勢が見て取れる。

 

人は暮らしを簡素にすればするほど独り居は独り居でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でないとわかります。

 

幸福というのは蝶に似ている。追いかければ追いかけるほど遠くに去る。だけど、あなたが気持を変えて、ほかの事に興味を向けると、それは こちらにやってきて、そっとあなたの肩に止まるのだ。 

 

身体や心を動きをいったん止めて、自分が感じることを観察すると、これまで見えなかったものが見えてきたり、聞こえなかったことが、聞こえてくることがある。ソローが自らに準備したのは、孤独のための椅子であったかもしれない。意図された孤独を経ることでしか体現されない、自分への誠実さのかたちもある。

 

 

「森の生活 (上)   ウォールデン」   H.D. ソロー  岩波文庫 飯田実 (翻訳)

 

検索すると絵本になったものなど、いくつもかの種類がある。本棚にあるのは、上記2つの出版社のもので、初めて読んだのは岩波文庫。前者訳者の今泉さんは「ざんねんいきもの事典」などで知られる今泉忠明さんの実兄。飯田さんの訳は格調が高く、今泉さんの訳は現代風で読みやすい。