言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

「悲しい」ことは「考える」こと。「考える」ことは「願うこと」。

本棚にある河合隼雄さんの本を数えると31冊。1冊1冊を、丁寧に、繰り返し読んできた。「子どもの本の森へ」は詩人・長田弘さんとの対話集。ここでの長田弘さんは、詩人というより鋭い社会学者みたい。久々に本を開いてみる。途中、随所で「略」あり。

 

@7ページ

長田 しなかったもの、しそこなったもの、つい忘れてそれっきりのもの、そういうもののなかには、じつは、自分で気づいていない豊かなものがいっぱいあるんだってことを、忘れたくないですね。

 

@102ページ

河合 社会へ出ていくときに、個を失ってしまったら、そのなかにべたーっと入り込んでしまいます。個というものをもって社会のなかに入っていかなければならない。そんなことは魔法を使わなければできないわけです。個といいながらみんなとつながるというのは矛盾ですから。 ふつうは、大人になれないから、困って、子どもの世界に逃げこむのが魔法だと思われていますが、まったく逆です。

長田 そうなんです。魔法は逃避ではなくて、より豊かに社会あるいは世界に参加できる方法なんですね(マーガレット・マーヒー『足音がやってくる』『めざめれば魔女』について)。

 

@155ページ

長田 ゆっくりめくっていくうちに、絵本が手がかりになって、自分のなかにどう言ったらいいかな、もう一つの時間ができていく。あるいは、読み終わって、時間が経つうちに、やっぱり絵本が手がかりになって、記憶のなかにもう一つの時間ができていく。

人生全体から見たら、絵本を読む時間、読んだ時間なんてほんのちょっぴりで、とうてい長い時間なんかじゃないのに、のこるのです。確かな時間として、そこだけははっきりした時間になってのこる。

ですから本であっても、絵本によってのこるもの、絵画や音楽によってのこるものにずっと近いですね。子どものとき絵本の世界とそういうふうにして付きあったか付きあわなかったかで、それから後の、人生の時間の寸法はずいぶん違ってくるのではないかということを考えるんです。

 

@180ページ

河合 現代人はどんな事象に対しても「なぜ」と問いかけ、その答えが簡単に得られ、それによって安心するというパターンにはまりこみすぎているということです。しっかりと悩み続けることにこそ人生の意味があると知るのです。大人も子どもに負けぬように、もう少し悩みつづけてもいいのではないか。子どもが悩んでいるのに、大人がすぐ「解答」を求めようとするのは、大人のあさはかな思いこみだと思いますね。

 

 

再読を繰り返し、多くをメモした本でもあった。いたるところに線を引き、ページの端を折り、ぼろぼろになったので、保存用として2冊目を買った。138ページにある長田さんの言葉が、やさしい温度で身体の奥まで入り込んでくる。下記下段で述べられる「絵本」は、仕事でも学びでも、家族や友人との関係、成功や挫折など、他のなんにでも置き換えることができそうだ。

 

長田 「悲しい」というのは「考える」ことだ。「考える」というのは、「一生懸命願うこと」だ、「一生懸命願う」というのはどういうことかといったら、「本当にそう思うこと」だ、という。そこまでいって、ふっと、悲しみが消えるんですね、最後に(136ページ)。

 

長田 絵本は、物語にゴールがあってそこに到達するというんじゃなくて、ぐるっとまわって最初にもどる。けれども、最初と状況は違わなくっても、もうすでに自分は違う自分になっている(138ページ)。

 

 

 

 

「子どもの本の森へ」(岩波書店) 河合隼雄長田弘

=「子どもの目」には見える真実に大人はまったく気づかない=これがこの本の帯の文章(表紙部分)。