朝から快晴。ひと月遅れの初詣に行って来た。霊感が強く、座敷童や河童を何度も見たことがあり、雲の種類やその動きで地震の予知もできる(全て自称)というカメラマンのAさんから教わった通り、頭を下げて鳥居をくぐり、参道の端っこをそろそろと歩き、本殿で参拝。
Aさんは、神様は神様なので賽銭=お金など不要なのだ、と少し威張って話していたが、建物や敷地の維持にはお金がかかるだろうと、500円玉を1枚、賽銭箱に入れる。Aさんは、自分が貧乏なのを神様のせいにしているのだと思う。
それにしても、ここ八幡様の鳥居をくぐると、いくら鈍感な自分でも「気」のようなものが一気に変わることがわかる。温度でも湿度でも匂いでもない、「気」。
願い事はしない。家族が健康であること、お世話になった方々に感謝。家族みんなの干支のお宮も回って、パチパチッ。いくつか気の重い仕事もあったので、気分も晴れた。
どこかのお宮の前で、一人のおばあさんが、長い時間動かず合掌していた。誰のこと、どんなことを祈っているのだろう。
合掌の姿勢は、どの角度から眺めても美しい。いつかテレビで、瀬戸内寂聴さんが話していた。
「合掌するとね、相手に暴力もふるえない。セックスもできない。私は何もできませんという姿勢が人を美しく見せるのよ」
遅い初詣のおかげか、今日は朝から晩まで、たくさん笑った。いったん笑うと、何でもかんでもおかしくなるから不思議。
うれしいことや美しい音、素敵な言葉を聴くことのできる幸せを「耳果報」というそうだ。
その気になりさえすれば、私たちの周りには「果報」があふれていることに気付く。いい言葉、いい音だけを選んで聴くのは、耳の形状や聴力ではなく、その人、そのときの「意」でしかない。聴こうとしないで耳に入るのは、ただの音。聴くことは受動行為ではなく、極めて能動的な行為であることがわかる。
笑い声は、なににも代え難い「耳果報」。そうはいっても、笑うことさえできない日々もあった。そんなときの自分を思い出すと微妙な気持ちになるが、それもよしとする。たまたま開いた本のページに、鉛筆で線を引いたあと。
「人間は成長した地点から昔に戻ることはできない。それが成長の代償なのだ」(「スナックちどり」よしもとばなな 文藝春秋)