言葉と記憶の小径。

A Pathway of Words and Memory.

為(し)事。

ふと目にしたことや耳に飛び込んできた音、あるいはどこからか漂ってくる匂いに、自分のなかに長く眠っていた何かが揺り起こされる瞬間がある。今日、コンビニで「おじさん」という子どもの声に、振り向く。自分ではなく、ほかの誰かを呼んでいた。

おじさん、おばさん――懐かしい言葉だ。子どものころから大人になるまで、数えきれぬほどにおじさん、おばさんという言葉を発し、数えきれぬほどのおじさん、おばさんの世話になってきた。父や母の兄弟姉妹、つまり、合わせて16人にもなる叔父や叔母たち。鉄道官舎に住んでいたおじさん、おばさんたちはまるで家族のようで、毎夜毎夜、違う家でご飯をご馳走になったりした。

学生時代の、バイト先のおじさん、おばさんがいた。駅の売店のおばさん、豆腐屋のおばさん、蒲鉾屋のおじさん、スーパーのおばさんには、時折、お昼のお弁当を作ってもらった。倉庫街のおじさんからは、日々、克明に女性の身体の構造のあれこれをレクチャーしてもらったし、居酒屋マツミのおじさんは、毎夜、終電車でバイトから帰る私に、モヤシがたくさん入った焼きそばを作ってくれた。京都のYHのおじさんは大学の授業料まで出すといってくれた。積丹の民宿のおじさんは、私が漁船で右腕を複雑骨折した際、大漁の網を放り出して助けてくれた。

社会的な地位ということでは、ないに等しい人たちばかり。が、それぞれがその道のプロ。けな気に自身の力で日々の生活を創造し、日常を慈しみながらも、他者にも愛情を注ぐことを忘れなかった。生活は苦しくても、自分のすることを愛し、それらを為し得るために血も汗も流した。計算ずくのトレードやレートで測る仕事とは無縁の人たちでもあった。私は心の底から彼らを尊敬し、慕い、愛し、彼らもまた、ボンクラでしかなかった私を無条件に愛してくれた。


仕事はもともと「為(し)事」とも書いた。

 

柳田國男森鴎外山本周五郎、啄木らの書物のなかで何度かこの言葉を目にした。本来の創作活動を「仕事」と呼び、日々生活するための仕事を「為事」として区別されることが多いが、そんな区別ができるだろうか。生きるため、喰うために「為事」を当たり前としてきた彼らは、かなりの部分で、作家たちよりも尊い気がしてならない。

 

夜、布団にくるまり、折々に顔を思い浮かべ、おじさん、おばさん、と呟いてみる。マツミのおじさんがいつもいっていた。「ダイちゃん、1本のマッチ棒でも愛おしく思える人は、誰からも愛される人になるんだよ」。



青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を喰って生きるくらいの非人間的な強さをもっていなければならぬ(谷川俊太郎)。



おじさん、おばさん。自分は、こんなおじさんになってもまだ、青臭い夢ばかり追いかけている気がします。当分、あなたたちのような人間になれそうもありません。