言葉と記憶の小径。

A Pathway of Words and Memory.

ひとときを咲く。

今年に入って何度も繰り返した大掃除。10年以上前の仕事(作品とは思っていない)や写真(ポジフィルム)の大半を捨てた。

名刺も5年おきに溜まったものをその都度確認し、もう絶対に会わないであろう人のは捨てる。5年前に捨てた名刺は2300枚。ほぼ100枚ごとにケースに入れてまとめあるので、概数がわかる。大事な人のデータはクラウドにしまってある。この5年間では10分の1にも満たない数になってしまった。年を重ね、仕事の質が大きく変化した証拠である。

 

2つ上の先輩に、大切なのは(人に会った)数ではなく、(人を洞察する)深さだ、といわれたことがあった。その方は、ほとんど人に会うことなく、ほぼ通年、資料だけで物書きの仕事をしている。そうかもしれない、とそのときは思ったが、いまは正直、わからない。物ごとや時間の積み重ね=量には、自分たちの想像を超えたエネルギーが宿る。

 

とはいえ、本をたくさん読んでいても、おかしな人はたくさんいる。読書に無縁の人でも、その道を究めたプロはたくさんいるのだ。結局、本でも人でも、いま、目の前にある一つひとつの出会いを無碍にせず、出会いの意味を自分のなかで折り合いをつけられる人が、素晴らしいのだと思うことにしている。

 

家族と離散し、仕事を失い、友人から見放され、暗い路地の片隅でホームレス生活を送る夢を数えきれないほど見てきた。怖くて、小さくはっと声をあげて、夜中に飛び起きるのだった。サラリーマンという堅気の商売を捨て、二か月先の生活など、一度も見えない不安を抱えっぱなしの数十年。自ら望んで走ってきたわけではなく、向こうからやってきた何かを信じ、愚直に受け入れてきた情けないほどの受動態が、この自分を創り上げたらしい。

 

 

而今」という言葉がある。「しきん」もしくは「じこん」「にこん」と読むのだそうだ。いま、この一瞬が全てであり、過去の全ても、いま、この一瞬に存在する、という仏教の教えである。仕事のあるときは、その仕事に精を出すよりほかはなく、遊んでいるときは命をかけて遊ぶ。死のときが来れば、死のほかは何もなく、受け容れるよりしょうがない。仕事がなくなりホームレスになっても、その現実と向き合うほかはないのだろう。どこかでそう思ってきた。頭ではそうわかっていてはいても、怖くてしようがなかった。

 

仏教などとはあまりに縁遠く、夢も希望も持たず、目の前のことだけをコツコツとやってきた。そのことだけで、これまで何とか食いつないでこられた…ということを、先日お会いした悩める青年A君に追加で伝えたい気持ちが、こんな言い訳がましい文章になってしまいました。

 

見ずや君

明日は散りなん花だにも

力の限りひとときを咲く  (九条武子)