言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

二つの祖国。

何かに取り憑かれたかのように、単身、韓国・A市にあるB施設にうかがったのは、コスモスが咲き始めた、ちょうどいまごろの季節だった。息子が1歳になったばかりで「しばらく外国に行って来るよ」といったら、ふだんは大人しい6歳の娘が、突如、近所に聞こえるような大声でウンギャーッと泣き叫んだことを覚えている。

 

日本を捨てて朝鮮半島に渡り、彼の地で戦中戦後を生き抜き、さまざまな事情を経て孤独の身となった日本人女性たちが身を寄せる施設である。大学ノート3冊とCanon/EOS+105ミリ(レンズはこの1本で決めた)とKODAKトライ-X 400/135-36枚撮り30本、いつものように2泊3日分の着替えをリュックに詰め込んだ、2週間の旅であった。

 

ソウルからバスと電車を乗り継いでA市に着いたのは、入国後1週間経ってのこと。鉄道でも、真っ直ぐに行けば4、5時間で着いてしまう距離だが、途中立ち寄った大邸(テグ)でひどく体調を崩し、5日間も安宿で寝込んだあと、ようやくたどり着いた。

 

紙切れに書き殴ったハングルを駆使し、田舎の路線バスに乗り、裏道、あぜ道を迷い続け、施設に着いたのは昼下がり。その日から3日間の日程で、20人前後の日系夫人全員のお話をうかがい、撮影をすることができた。

 

全盲にもかかわらず、一人、洞窟で生活しているところを発見されたY子さん。難病に冒されたまま、卵を売って生き延びてきたA子さん。北海道出身で「何でもいいから、北海道の話を聴かせて」と私の顔を見るたびにせがんできたR子さん、死ぬまでに秋田にいる妹さんに会いたいと号泣したW子さん──など、どの方も二つの祖国の狭間で生き抜いてこられた方ばかり。

 

ほぼ全員の方が「この地(韓国)で死ぬ」ことを決めていた。「それが、自らに課せられた責務」と言い切ったY子さんの言葉が、いまも心の深くに突き刺さったままである。

 

絶縁されたままの日本の家族・親族、忘れがたい故国と故郷の風景、戦禍のなか、戦後の混乱のなかでの異国の暮らし。あまりに過酷なはずの運命さえ、一つとして他者のせいにはせず、自らの人生を引き受け、生きようとする潔さはV・E・フランクルのいう「それでも人生にイエスと言う」の体現であり、以来、私の人生を支える「軸」を与えてくれた。

 

あの頃、70代~80代だったみなさんがいま、全員元気でいることは望むべくもない。この春、亡くなった母と同世代の方々と考えれば、むべなるかなでもある。

 

眠れない日々が続いた。そんななか、昨夜、夢に出てきた彼女たちの笑顔は、何を伝えたかったのだろう。冬が来る前に韓国に渡り、残された方々とお会いできれば、という願いを捨てずにおこうと考えている。