言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

天体望遠。

暑さが続くと、涼し気な秋の夜が懐かしい。雨が続くと、月が恋しくなる。夜の縁側に座って月を仰ぎ、虫たちの声を聴くのは、ずいぶん昔からのお気に入り。それでも不思議なもので、子どもの頃、夜空でてらてらと光っていた月よりも、大人になったいまのそれがどんよりして見えるのは、空気のせいなのか、現在地の緯度が関係しているのか、それとも年を重ねて目が悪くなったからなのか、わからない。

小学生のときのことだ。両親に無理をいって、学研の「科学」という本を毎月買ってもらっていた。買って、というよりもこの本は、学研のおばさんという配達専門の人がいて、毎月、家まで届けてくれるのである。
発売日になると、おばさんが来るのが楽しみで、学校から帰るとずっと、当時飼っていた犬のタロの小屋の脇で、時折タロの頭に手ぬぐいを頬っかぶりさせ、ゲラゲラと笑ったりしながら、おばさんが来るのを待っていた。

何年生のときのことだか忘れたが、天体望遠鏡が付録になってきたことがあった。望遠鏡といっても、レンズが二つあるだけで、筒は自分で用意した画用紙で作る。画用紙を丸めて筒を作り、前と後ろにレンズを付けて出来上がり。ちょうど、その夜は、まん丸なお月様。私は庭の葡萄棚に望遠鏡を固定して、おもむろにレンズの向こうに輝く月を眺めてみた。

クレーターのでこぼこがはっきりと見えた。生まれて初めて見る、月のでこぼこ。急いで家に戻り、酒を飲んでいた父を大声で呼んだ。「とうさん、とうさん、月のでこぼこ見える」。父だけでなく、母までが一緒に庭に出てきて、交代交代で望遠鏡を月に向けた。

「やっぱりウサギなんか、いないねえ」と真顔でいったのは母だった。その母に向かって「いるわけない」といったら、ゲンコで一発、頭を殴られた。妹は、家のなかでテレビを観ていた。いつも私に意地悪ばかりされるので、こんなときには特にそばには寄って来ないのである。


「まるで、表面が凍ってるみたいだな」と父がいった。「雪が見えないから、砂漠なのかな」と私がいった。ほんの数分、父と母と過ごす時間であった。月のでこぼこが見えたそのことより、ふだんは諍いの多い父と母が一緒になって望遠鏡を覗きに来たことのほうが、ずっと、うれしかった。

月の表面温度がどれだけあるのか、地面が凍っているのかどうか、大人になったいまも知識はない。父がどんな意味でいったのか窺い知れないが、確かに、地上に降り注ぐ月の光には、地球上の全ての生き物を凍結させ、異次元へといざなうような抗しがたい力を感じてしまう。

月が美しい秋の夜。青い精気を注ぎ込まれた庭の虫たちの声が、森の囁きのように聞こえてくると、画用紙で作ったあの望遠鏡と、父や母と過ごした、あの短い時間がよみがえる。