初めて「光る砂漠」(童心社)を手にしたのは高校の図書館であった。21歳で夭逝した矢沢宰の詩集である。
2週間おきに借り換えを繰り返し、ほぼ3年間、自分の手元に置いた。カードが自分の名前だけで埋まっていくのが、少しうれしかった。どうして買おうとしなかったのか、思い出せない。
矢沢の作品を最初に紹介したのは、お茶の水女子大学教授(当時)の周郷博さん。1966年のことだ。
「日本語で書かれた詩で、これほど私の心をとらえ、有無をいわせず、私を『変革』する力を発揮した詩は、万葉や実朝の歌、芭蕉の句のほかにあまり思いあたらない」
周郷さんは、そんな言葉を残している。この出会いで矢沢の詩は文学作品として評価を得るようになり、次第に全国でも知られるようになっていった。
私は、やなせたかしさんが責任編集を務めた「詩とメルヘン vol.1-3」(1973.10月号 サンリオ出版)で矢沢の存在を知った。詩集が身近な図書館にあったのは幸いであった。
同誌には「詩一篇かきあげて」と「五月の詩」の2編が収録されている。やなせさんはのちに8回「詩とメルヘン」に矢沢の詩を掲載している(記録に誤りがありましたらご容赦下さい)。
五月の詩
僕は、燃えがらではない
一つのベッドをあたえられて
悲しみながら
じっとがまんしているんだ、
「ちょっと今晴れているか、空を見てくれ」
人間て言う奴を
考えれば考えるほど不思議に思える
その不思議の深さを
本当にはっきり見た人が
死んで行くのだろうか
花は花として見たい
草は草として見たい
かわいい女の子を
そうと手の平に乗せて
いつまでもいつまでも
見ているような気持ちになりたい、
そんな気持ちになるよう
がんばろう!
※16歳のときの詩
私の中で…
私の中で他人(ひと)の花は咲かない
他人(ひと)の中で私の花は咲かない
私には私の中で私の花が咲く
枯れて行く花が…
そよ風にも散りそうな
弱い花
それでもいっしょうけんめいに開こう
と努力する弱い花
そういう花を私はかざりたい
※17歳のときの詩
矢沢を「唇に真珠をふくむ詩人」と評したやなせさん。
「さりげなく呟いた言葉が虹になる。生まれながらの天使なのだ」
「もしぼくが、日本の現代詩の詩集を選ぶとすれば、この詩をトップに持っていきたいぐらいよくできた作品」
のちに新潟県見附市にある矢沢の生家も訪ねるほど、矢沢の詩を、矢沢という人間を愛した。「多くのプロ詩人に嘲笑されながら、詩には子供も大人もプロもアマもないという編集方針を頑固にまもってきた」やなせさんらしく、強く、やさしさにあふれた言葉である。
病に侵され、生と死の間を漂いながらも、矢沢の精神は静かに燃え、自然の営み、他者への感謝の気持ちで満たされていたに違いない。愚直なまでに「愛すること」に努めた人であった。その愛情は言葉の一字一句にまで緻密に注がれ、自らの心の風景を眺めるすべを教えてもくれた。
小道がみえる…
小道がみえる
白い橋もみえる
みんな
思い出の風景だ
然しわたしがいない
わたしは何処に行ったのだ?
そしてわたしの愛は?
(絶筆 1966年)
※故郷の見附市には「少年」の詩碑が建てられている。詳細は上記HP参照。
※童心社刊「矢沢宰 詩集 光る砂漠」(1969 写真上)、サンリオ出版刊「矢沢宰詩集 少年」(1974 写真下)の2冊が手元にあるが、表紙も中身もぼろぼろになってしまった。
※一部修正し再掲載しています。