言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

時間という養分。

農産物は自然の営みが作るもので、人間はちょっとした手助けをすることしかできない。味噌、しょう油、納豆などの発酵食品も、本来は自然のなかに存在する酵母や菌と時間との相互作用で完成される。

大手の食品会社で話をうかがったことがある。味噌もしょう油も塩辛も、漬物も、発酵食品はすべて、時間という工程を徹底的に省略する。食品は白衣の研究者たちが研究室で生み出す「商材」なのだという。


「半年も1年間も待っていられない。工程を短くするだけで製法原理は同じ」。そのための研究開発、大量生産である、彼らはそういって胸を張った。


薬剤を媒体に、数時間あるいは数日単位でできる発酵食品はすでに「工業製品」だ。自然の地力を低下させてもなお、資材と薬剤を用いて収穫向上を図る近代農業と同じ発想といえる。

 

宅建築に多く用いられる人工乾燥材がある。高温の釜で短時間で含水率を下げる。長尺ものを乾燥させる巨大な釜もある。天然乾燥材を使用する工務店もあるが、ごくわずか。知人の林業家がいう。「人工乾燥は電子レンジと同じ。拡大してみると細胞がみんな死んでいる」。

 

オーストリアでは、大地のエネルギーが増すとされる新月の時期を待って木を切る「新月伐採」が公的に認証されている。電子レンジで温めた食品本来のエネルギーの損失について、成分を超えたところにある何かを、誰か教えてほしい。

 

いい空気と四季の陽光、時間の養分をたっぷり吸い込んで木ができる。そこに人の手を加えて家を組む。日本の家はもともと農産物だった。

 

大工さんたちは、天然乾燥だからこそ、木の癖を読んだ。法隆寺の再建を手掛けた西岡常一棟梁は、1本の木が育った山の地形までさかのぼり、木を選び、使いこなした。「適材適所」とは、こういうことをいうのだろう。

 

宗教家は神が創った自然、という。農学者は温度と水と土と気候が産物を産む、と説く。企業家はあらゆる工程を省いて、自然を化学・科学的・経済的に加工する。誰の答えも正しく思えてくる。一つだけいえるのは、時間にもエネルギーがあるということだ。自然のエネルギーに時間の「養分」が加わり、本物の農産物や発酵食品ができる。

 

昔、ばあちゃんがいっていた。「おいしい梅干しや味噌を作るためには、お天道様の力と風の力、それに時間の力が必要なんだよ」。企業の研究者たちに比べると、ばあちゃんは学歴もなく、確かに貧乏だったけど、全身からやさしさというエネルギーがにじみ出ていた。そのエネルギーも加わった梅干しや味噌は、奇跡のようで、ほんとうにおいしかった。

 

こんなにも、私たちは「待つ」ことが苦手になった。わからないことがあればパソコンやスマホで即座に答えを得てしまう。デジタルで文を書き、手紙の代わりにメールやFAXを送りつけ、フィルム現像の工程をすっ飛ばし、片手で、スマホを操り、被写体を切り取る(片手で写真を撮ることなど、いまだにできない。手ブレがこわいのだ)。昔、こわい先輩たちに、いい文章、いい写真には「待つ」ことが必須なのだと教わったが、いまはこんなこと、誰も信じてはいない。

 

何をするにも手抜きばかりの自分に、こんなことをいう資格はないのだけれど、最近、遅れることを大事にしようと思い始めたのは「年」という「時間」のおかげであるかもしれない。

 

※以前の記事を加筆修正し再掲載しています。