言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

物語。

親しい人との待ち合わせは、本屋さんと決めている。少し早めに行って棚を眺めることができるし、相手が遅れて来ても、立ち読みをしていれば、時間など気にならない。どんな人がどんな本を、どんな顔で見ているのかを眺めるのも好きだ。

 

けれど、大きな本屋さんは苦手。本の量にも、人の多さにも圧倒され、1冊も選ぶことができずに店を出てしまう。どうして、あんなに大量の本の中から1冊を選ぶことができるのだろう。

 

本屋さんに入ると、まずは、入り口付近の平積み。台を見回すだけで、本屋さんの志向が見える。ベストセラーを並べず、頑なに古い哲学書や専門書、地方出版などを積んでいるところは、どんな店員さんがいるんだろうと、わくわくしてくる。

 

あちこちにPOPを掲げている本屋さんは、店員さんに根っからの本好きがいる証拠。本を手に取らなくても本の内容がわかったり、古い本でも大切にしたい店員さんの気持ちが伝わってくる。ただし、POPの短い文章がきちんとツボを押さえていないと、逆効果。

 

以前、お世話になった本屋さんのご主人は「あのさ、かわいそうな女の子が出てきてさ、やがて王子さまがね、そしてね」と、うろ覚えの内容を伝えるだけで「その本、ここにあります」と棚まで連れて行ってくれた。店内にある20万冊はたいてい頭の中に入っているんだと、はにかみながら笑っていた。まさに、書店員の鏡。

 

気になる本を手に取り、最初に見るのは、表紙のデザインと帯。帯にある言葉、装丁は、よほど著者の志向が強くない限り、編集者が全権を担う。帯の文言を書きたくて編集者になったという人を3人知っている。

 

次は、本文を飛ばして、奥付。最後のページである。出版社、著者のプロフィール、版や刷り数を確認し、少し戻って、あとがきや解説に目を通す。今度は、また本文を飛ばし、目次。ここで、流れをつかむ。最後に、本文に戻って文字組やフォント、見出しやノンブルの付け方を眺め、ケイの使い方、本文の組み(1行の文字数、1ページの行数、行間)をぱらぱら眺め、指で紙質を感じつつ、相性を見極める。

 

読書家ではないし、本屋さん通いが好きなわけでもないが、ベストセラーや売れっ子作家には興味がなく、長期間にわたって書店流通に残る力を有している本にしか、目が向かない。本もまたクラシック音楽と同じで、時間の経過に抗い、無数の価値観に洗われ、時代のふるいにかけられてきた本特有のエネルギーがあるはず、と信じているからだ。

 

本を読むときには、片手に鉛筆を持ち、気になる箇所、覚えておきたい部分にどんどん線を引いていく。「本が汚れる」という人もいるが、紙に穴が開くほど読み込み、自分の血肉になって初めて、著者も出版社も報われる。そんな屁理屈に基づく習慣といえる。

 

1冊の本に感銘を受けたなら、同じ作家の本を読み込み、再読を繰り返す。「何度か再読を繰り返したあとは、どうしますか」「また読みなさい」。作家のAさんからじかに教わった読書法だ。

 

同じ作家で40冊以上を読んだのは、5人。その40冊の再読、再再読を繰り返し、ページの端を折ったり、線を引いたり。やがて、ほとんどの本がボロボロになってしまう。だから、大事にとっておきたい本は、同じものを購入することになる。

 

読み終えると、線を引いた部分を、メモ帳に書き写す。コピーをして、ノートに糊付けすることもあったが、手を動かし、書き写すことで初めて、自分の中に刻まれる気がする。偉そうなことをいうわけではなく、こんなに読み込んできても、アホのままでいる自分が恥ずかしい。

 

同じ本でも、30代で読んだときと、40代、50代で読んだときとでは、内容も景色も全く違って、自分の中に入ってくる。深く読み込んだ本は、二度三度読んでも、そのときどきの自分に必ず、新たな発見をもたらしてくれる。

 

作家の小川洋子さんは「あなた、こんなことでは駄目ですよ。あなたが行くべき道はこっちですよ、と読者の手を無理矢理引っ張るような物語は、本当の物語のあるべき姿ではない」と書いている。そうした本は、読者を疲労させるだけで「物語の強固な輪郭に、読み手が合わせるのではなく、どんな人の心にも寄り添えるようなある種の曖昧さ、しなやかさが必要になる」というのである。

 

物語はもともと、私たちの中にある。ふだんは、意識の奥底で(あるいは宇宙のどこか片隅にあって)認識することはできないが、誰一人例外なく、私たちは自分の物語を思い出し、それを3Dに立ち上げ、あらゆる学びを得るために、この世に生まれてきたのではないか。

 

こんなに過酷で訳のわからない人生を生き抜くためには、周囲にあふれる情報や手段だけでは到底、無理らしい。言い換えれば「答え」を得ることを放棄し、身体や無意識のどこかで感じている未完の物語に向き合いながら、物語を完成に向けていくためのツールが、人や本との出会いといえるのかもしれない。いま、目の前にいる人、手にしている本が、その人に必要な物語を喚起する。その物語が完成することは、決してないのだろうけれど。