言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

陰と影。

資料をめくる。「1/f ゆらぎ」という言葉が目に入る。単調でなければランダムでもない、自然界に多く存在する特別な振動。小川のせせらぎやそよ風、星のまばたき、蛍の光なども「1/f ゆらぎ」なのだそうだ。

 

定規で引いた線より、手描きの線のほうがしっくりくるように、不規則でも規則的でもないあいまいな振動が、心地よさを醸す。人間の鼓動も正確なリズムを刻んでいるのように思えるが、呼吸も脈も一定のリズムではない。早くなったり遅くなったり。ここにも、ゆらぎがあるらしい。

 

お父さんやお母さんの胸に抱かれた赤ちゃんは、ゆらぎのある振動を身体で感じることで、安心を得る。この春訪れた沖縄では、子どもが親に抱かれ、膝の上で安心する様子を「腰当(クサティ)」といい、転じて、祖先の霊や神に囲まれた安寧の場についてもこの言葉を使うことを知った。

 

谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」に、

 

(日本人は)美は物体にあるのではなく、

物体と物体との作り出す陰翳、

あや、明暗にあると考える。

 

という一文があった。燭台のゆらぐ光に浮かび上がる漆塗りの椀、薄暗い座敷でほのかな光をたたえる金屏風、闇に近い空間でこそ白くなまめいて浮かび上がる女性のうなじ。蛍光灯の下ではただの食器にしか見えない漆器も、キャンドルや間接照明のなかではむしろ、そのほの暗さを深い光に換えて美しさを主張することは、あまり知られていない。

 

自然の風や音や光を住まいや庭に取り入れ、限られた空間で風鈴や水琴窟、ししおどし、燭台や灯篭、行燈、提灯などとして体現した日本人は「1/f ゆらぎ」の名人であったともいえる。住宅論、インテリア論としても、名著。

 

けれども、いまや私たちは自然界に目を背け、多くの時間をパソコンやスマホの仮想世界に浸りきり、外を歩くときでさえ、耳をイヤホンやヘッドホンでふさいで、デジタル世界に身を置いている。

 

どこかの家から聞こえてくる赤ちゃんの声、セミやヒグラシの鳴き声、鳥のさえずり、樹木の葉擦れの音――意識を向ければ、都会でも「1/f ゆらぎ」の世界は身近にある。

 

街にも家にも、影が少なくなった。家の照明は、闇を昼間に差し戻すかのような煌々とした明るさ。空間の隅から隅まで照らして陰翳をなくし、キャンドル=ロウソクといえば仏壇で使用するくらい。そのロウソクも火が危険といって、LEDが人気になっている。床や壁、柱や梁なども、木材本来の曲線や木目、肌合いが化学製品のクロスで覆われ、気持ちを静めるはずの「1/f ゆらぎ」をシャットアウトしてしまう。直線や光、科学や化学、デジタルの世界は性質や性格、風景や音、光までも均一化してしまったようだ。

 

明るく笑顔で、前に進むことも大事だが、自分はそんなに強くない。人にも、影やゆらぎが必要なのだ。毎日ゴキゲンで前を向き、プラス思考で力強く、ファイト、ファイト…的な人に会うと、蛍光灯の人工的な白い光を長い時間、直視しているみたいで、疲れてしまう。

 

影は、悪と同義語ではない。マイナスの要因ばかりを抱えているのでもない。他人の目から見ると、影があってこそ、魅力に感じられることもある。そこに光を見ることもある。異性に感じる色気や艶は、ほとんどが影。

 

しかし、自分のなかの劣等感や恐怖、抑圧などを影とすれば、その影から逃げれば逃げるほど、影の存在は大きくなる。「ゲド戦記」(全5巻 作:ル=グウィン 訳:清水真砂子 岩波書店)の1巻目「 影との戦い」では、自己に潜む影との熾烈な戦いが描かれている。ジブリでも映画化された。

 

傲慢さと憎しみから、自分の闇の世界に潜んでいた影を、あるとき、世に出してしまったゲド。自分ですら存在を認識できない「もう一人の私」ともいうべき存在がまさに「影」である。ゲドは影を恐れ、影から逃げまとう。そうしているうちに、影は次第に明確な形を表し、巨大化し、ついに人をのっとり、やがて人の形をしてゲドの前に現れる。

 

得体の知れないものに追われる恐怖。その正体は、世界中のどこでもなく、自分のなかに存在していた。自我との対決を迫られるゲド。影との戦いに敗れれば、世に害をなす存在になってしまう。結末は、勝利でも敗北でもなかった――という物語。

 

光のあるところには影がある。影はしばしば、私たちが願う方向とは逆に作用し、自我との対決を迫りもする。その対決は、生死をかけた過酷な戦いとなることもあるが、導きとなり得ることも少なくない。物語に出てくる魔法学院の教師の言葉は象徴的であった。

 

その対決は、

力を持ち、知識が豊かに

広がっていけばいくほど、

その人間のたどるべき道は狭くなり、

やがては何ひとつ

選べるものはなくなって、

ただ、しなければならないことだけを

するようになるものなのだ。

 

苦難の旅の果てに、自分のなかの光と影を結合したゲドは、最後に全てをひっくるめて自分自身の姿を知る。その自分は、自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない、という自分である。

 

影を見ようとすることは、光を求めることでもあるだろう。ただ、いちばん見たくもないところに隠れているのが、影であり、光であったりもする。このパラドックスにまじめに向き合うと、いつも頭が痛くなって、胸の奥がドキドキしてくる。