母がグループホームに入居して1年半になるころ、コロナがまだ大きな騒ぎになる前のことだ。
グループホームとは、認知症の症状を持ち、病気や障害で生活に困難を抱えた高齢者が共同生活する施設のこと。幸い、家からそう遠くないところに入居できたので、週に3回ほど顔を出すことができた。家に連れてきたり、家族が一緒であれば、外出もできる。そうすることで、母の気持ちも少しは落ち着くのだった。
施設の部屋に行くときには、ちょっとしたおやつを持参する。必ず一緒に食べる。おやつを預けたまま帰ると、どこかにしまってしまい、そのまま忘れてしまうからだ。バナナを置いたまま帰ってきてしまい、布団の下に隠して忘れてしまって、そのまま腐らせたことがあった。施設からも注意を受けた。
部屋に入ると私の顔よりも先に、おやつの入った袋にちらっと目をやる。袋をのぞきこむ。今日は何をくれるのかなあ、という子どもみたいな顔になっている。おせんべいでもケーキでも果物でも、自分の分を取り分けたあと「半分あげる」といって、半分に割り私にくれた。妻が一緒のときは「半分んこ」といって、妻にもそうしてくれた。
ある日の帰り際、廊下で職員と看護師に呼び止められた。母が油性のマジックインキで他の入居者の持ち物に(その人の)名前を書いてしまい、困っている、注意をすると、部屋から出てこなくなることもある、という内容であった。
記憶が不安定なことを自覚するようになってから、持ち物に油性のマジックインキで名前を書くようになっていた。それはある時期からかなり徹底するようになって、鉛筆1本に至るまで、細く切った紙に名前を書いてセロハンテープで貼ったり、直接書き込んだりする。購入したばかりの外出用の靴にも、太いカタカタで名前を書いてしまうので、一緒に買い物に行くときなどは周囲に驚かれた。
部屋を確認すると、靴の脇の部分にも、シャツの側面にも、ズボンのゴムにも太字の油性マジックインキで名前が書かれている。衣類にまで書き込むのは他の人の洗濯物と混じらないようにという考えで、職員が選別しやすいようにとの配慮もある、というのが本人の弁。大切なお金を使って手に入れた自分の持ち物がなくなるのが何より怖いと感じていることがうかがえた。
名前を書いてしまったのは、斜め向かいの部屋のA子さんのサンダルだった。サンダルの横にも底にも先にも「A子」と太字で書かれてある。母に確認すると、新しいサンダルだからこそ、他の人のものと混じらないようにと、少し困った顔をして話してくれた。戸惑いつつも、自分はいいことをしたのだ、という誇りも感じられた。
母はA子さんのことが大好きだった。散歩のときも率先して手を繋ぎ、食事のときにはほとんど両手が動かないA子さんの介助をしていた。
しかし、いくら母よりも認知症状が強いA子さんでも、真新しいサンダルに青いインクでA子、A子、A子と名前を書かれたのはさすがにショックだったらしい。ひどく悲しんで、一時は部屋にこもって泣いてばかりいたという。「家族なのだから、そちらから本人に言い聞かせてほしい」ときびしい表情で迫る職員と看護師に返す言葉はなかった。
生まれ育ったのは、大雪山麓の農家であった。いまでこそ有名な観光地となったが、当時は極貧の農家の集落が点在する過疎のなかの過疎地だった。二里(8キロ)の道を町まで自転車で通ったという、洋裁学校の思い出はまるで昨日のことのように喜々として話した。そのときの表情は、認知症とは信じ難いほど、以前の母そのものの表情であった。
自分の両親の話をするときは、山の景色や季節によって異なる土の匂い、父親から与えられた勉強道具、母親から教わったそば打ちの話などをうれしそうに話した。モノこそなかったが、自分は恵まれ、与えられて生きてきた、感謝が大切なのだ――同じ話が繰り返されることに慣れ始めたころでもあった。いつだって、どんな話だって、初めてみたいなふりをして聴いた。母はいつまでも、話した。何度でも話した。
A子さんのサンダルのことは、後日、ご家族にあやまることができた。施設からは母の部屋から、油性のマジックインキやボールペン全てを撤去するようにといわれた。毎日、壁掛けのカレンダーに天気を書き込むのを楽しみにしていたので、鉛筆を数本だけは残しておけるようお願いをした。
このことがあってから、母はA子さんから次第に距離を置くようになっていった。ほどなくしてA子さんの症状はさらに悪化し、A子さんは特養に移された。面倒をみていたつもりの母は、A子さんがいなくなって部屋に引きこもりになる日が増えていった。そして、ある日、ささいな動作で転倒し、それが致命傷となり、二度の転院を経て旅立っていくことになる。
誰かの役に立っているという貢献感だけが人を幸せするのだ、という人がいた。与えるだけではなく、受け取ることもまた「布施」なのだ、という人がいた。難しいことはわからない。いま確かにいえることは、認知症になってもなお、この世に姿はなくともなお、支えていたつもりの自分が、実は、支えられてばかりいた、ということだけである。