言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

そこにいない人に向かって。

一人称で書くことを、きちんと学びたい。そう思っていた矢先、取引先の方から「ブログをやってみたら」とアドバイスをいただいた。2005年のことである。「ブログ」など初めて聞く言葉であり、操作のいろはもわからないまま、右往左往で始めることになった。

 

仕事の世界では、仮に10万字に1字の誤りがあっても、大きなリスクを抱えてしまう。しかし、ネットの世界では、多少の誤字脱字があっても、すぐに訂正でき、削除も瞬時にできる──こんな世界が身近にあったことに驚いた。これなら気軽にできそうだ。出張の多かった時期でもあり、仕事の記録も兼ねることにした。以来、気の向いたときに書き記し、以来、20年以上も続けるなど、当時は考えもしなかった。

 

1700を超える記事を編み直している。当たり前のことだが、書くときには、読む人のことを考える。読んでくれる人は、不特定多数ではなく、いつも「一人」と決めている。

 

すでに天国に旅立った人。異国に住んでいる人。遠い昔に出会って別れた人。きのう、お会いしたばかりの人。妄想の中だけの人。毎回「一人」は違っているが、これまで書いてきた文章は全て、それぞれに異なる「一人」に向けたメッセージのつもりで書いてきた。

 

書くというのは、二人称をつくりだす試みです。

書くことは、

そこにいない人にむかって書くという行為です。

文字をつかって書くことは、

目の前にいない人を、

じぶんにとってなくてはならぬ存在に変えてゆくことです。 

=「すべてきみに宛てた手紙」 長田弘

 

貝殻をひろうように、

身をかがめて言葉をひろえ。

ひとのいちばん大事なものは

正しさではない。

= 「死者の贈り物」 長田弘

 

自分の思いを代弁してくれているように感じたのだろう。手元に、走り書きした古いメモが残っている。長田さんの言葉には、なんども救われ、また教わってもきた。

 

どんなに弱く小さな「一人」にも、宇宙を動かすほどのエネルギーが潜んでいる。「みんな」より「一人」がつくる小さな奇跡、渦巻きを信じてきたのだった。

 

見知らぬ街の海の浜辺で、身を低くかがめ、貝殻をひろうように、今日もまた「そこにいない人」に向かって、書いている。言葉は目に見えない。だから、せめて、伝わるようにと願いつつ、書いている。