言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

解体。

実家の処分をお願いしている建設会社から写真が届いていた。
同社のAさんがメールで送ってくれたのだ。
49坪の土地に、18坪の建物。
鉄道官舎から引っ越した後、55年間、世話になった土地と家であった。


18歳まで住み、その後は何度となく帰省してきた家でもある。

最後は認知症の母に代わって、解体を決断し、帰省中の短い時間のなかで一連の手続きを終わらせた。

 

建物は解体の28年前に一度、減築している。

私が実家に戻る予定が100%ないことを父が確認し、その直後、夫婦2人だけの終の棲家として、寝室のみを個室とし(それも襖で開閉自在とした)あとは全館オープンな間取りにしてしまった。

 

18坪とはいえ、坪に換算すると36畳。平屋でこれだけの大空間は、そこらの家より、ずっとおおらかに見えた。
しかし、完成後1年も経たずに父は逝去し、母の一人住まいが始まった。

 

いまの我が家から実家のある町を往復すると交通費だけでも、7、8万円。雑草や雪の処理を含めた建物の管理を近所の人たちに委ねるわけにもいかなかった。



解体を待たず、母を私の住む町、我が家へと転居させた。
認知症が進んでいた。
一日に何度も「家を空けてきたが、大丈夫だろうか」と不安そうな顔をした。


家の話になると、静かに遠慮がちに話したのは、ひょっとしたら自分はもう帰れないのではないかと探りを入れていたからかもしれない。

その杞憂は、はたして、現実になった。


北国ではお盆を過ぎると、わずか数日前までの暑さが嘘のように涼しい風が吹く。光はいっそう澄んで影が少し長くなり、その濃さを増すだろう。

 

この時期、肌を撫でる風の感触はいまも忘れてはいないが、記憶のなかの風の色は、透明ではなく、なぜか色が白く変わって見える。


拠って立つ場所を求めて、気持ちはさまよってばかりいた。しかし、あんな更地に思いをはせる日が来るとは思いもしなかった。

 

解体後も、何度か帰ってはいる。

先祖たちはいまだ、この町の寺院に預けたまま。タクシーに乗るたび、実家の跡地まで迂回をしてみようかと迷うけれど、いまだできずにいる。


母には、生涯、写真を見せることはしなかった。最期は、コロナで面会もかなわなかったが入院前は「家、留守にしているけど、大丈夫かな」と毎日、何度も、同じことを口にした。

 

その都度「毎週、確認しているから大丈夫」とうそをついた。

そうすると、ほんのわずな時間、母は、母の顔になった。






(2015年8月の記録から)