〇日
お盆。義父三回忌、母一周忌。確かにいた人が、確かに、いない夏。義父は地元の墓園に葬った。母の遺骨は、700キロ以上も離れた遠い地(寺院の骨堂)に置いてある。今朝、デスクのひきだしを開ける。施設にいたころの母の写真が数枚。いつもきれいに髪を染めていた。晩年はそれもしなくなっていた。写真のなかの、真っ白でペタンと薄くなった髪の母は別人のようだった。母の死は遠くて、近い。
この春訪れた沖縄では、たくさんの墓地を見た。あんなに小さな久高島でさえ、個々の墓碑は、畳数枚分もの広さがある。共同体が根強く機能する地域では、死はいまだ生の延長線上にある。近年まで、風葬や洗骨の儀式が残り、人の身体を燃やすことすらしなかった。人はただの物体ではなく、亡くなっても、家族と地続きの身近な生命体として崇め続ける。そうした重厚な文化から照射したときの、自分の生の薄っぺらさ。
〇日
テレビはオリンピック、スポーツといえば大リーグのOTANI。がんばったね、よかったねとつぶやきながら、スイッチはOFFにしてしまう。
人工的な映像や音のない時間が増えることで、目の前の世界が、これまでとは違った輪郭を持ちはじめる。無音は気味が悪いが、静けさは、視界をクリアにし、聴覚を少し敏感にしてくれる。
昔、仕事で訪れた英国で「たかが数日の滞在で、この国の何がわかるのか」といわれたことがあった。とっさに出てきた言葉は「5年いたら、もっとわからなくなるだろう」。入ってくる情報量が多ければ多いほど、本質が見えなくなることもある。意識して情報が削がれた世界は、ときに搾りたてのフルーツジュースみたいに新鮮に感じる。ほんとうは、皮肉屋で生意気な、あの英国人に負けたくなかっただけ。
〇日
ネットで調べものをしていたら、おもしろい言葉を発見。「名もなき名言」なのだそうだ。なるほど、すごい、と感心してしまう。最後に、自分なりの言葉を考えてみるが、全然、浮かばない。
■名もなき名言
「宗教」=こう生きなさい
「哲学」=なぜ生きるのか
「科学」=生きるとは何か
「文学」=もしこう生きられたら
「芸術」=それが生きた証だ
「美学」=そうやって生きたい
「世論」=生きてさえいれば
「医療」=生かしてみせる
「役所」=生きてたことにする
※補遺
「生活」=何だろう? 考えてみます。