言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

手。

〇日

初めて訪れる家で、つい、じっと見てしまうのは、その人の目と本棚、その人の手。黙していても、目が本質を語ってくれることもあるし、本棚には、その人の生き方の欠片が見え隠れしている。手はその人の職業、歴史を物語る、もう一つの顔。

 

先日お会いした、大工さんの手。親指は私の小指の2倍ほどの太さがあり、小指が親指ほどの太さ。爪は丁寧に切ってあったが、どの爪も端が黒いまま深くかたい皮膚にくいこんでいる。

 

厚みのある甲に刻まれた皺は、深い線を幾重にも連ねて細かく縞をつくり、指の関節は内側に5度ほど曲がって見えた。手のかたちそのものが、鍬の先っぽみたいだ。

不躾にも「手、見せてもらえますか」と頼んだら「えっ?」と驚きながら、両手を返して見せてくれた。ふっくらとした、厚く、かたい、温かい、大きな手。


「さわっていいですか」というと顔を真っ赤にされた。少し力を抜いたときの筋肉のように、硬くはないが、押してへこむような柔らかさでもない。

「働き者の手なんですね」と言葉を掛けると、隣に座っていた奥さんがにっこり笑って「はいっ!」と答えた。

 

〇日

手紙。2年前に我が子を亡くしたというお母さんから。久々に見る手書きの手紙だ。細いボールペンで、一文字一文字丁寧に書かれた文字が便箋3枚に埋まっている。「この頃、仏壇に掌を合わせる主人の後ろ姿が、小さく見えます」。

 

一気に書いたのか、時折、ペンを止めながら書いたのか。そんなことを考えながら、何度も繰り返して読む。文字をそっと手でなぞり、筆圧を確かめたり。その人自身にふれたような気になるのは、自筆の手紙ならではだろう。

 

手紙を書くということは、書いている「時間」を、相手に贈ることでもある。言葉を選び、ペンを動かす時間。糊を伸ばし、封をする時間。切手を選び、慎重に位置を決めて貼る時間。封書を手にして、ポストを往復する時間。そうした贈り物の束を受け止めたとき、送り主との「つながり」が生まれる。人は人に何かを「してほしい」だけではない。「つながり」があれば、報われることもあるはず。


コロナで面会ができない時期、施設の母に手紙を書いたことがあった。母の認知症の症状は進む一方であった。その母が亡くなったあと、少ない遺品の中に開封されていない手紙が何通か見つかった。封筒の裏に書いた私の名は分かっただろうか。思いは届いただろうか。いまでも時折、そんなしょうもないことを考えている自分がいる。

 

 

〇日

ホテルのロビーで、一組のご夫妻から声を掛けられた。奥様がにっこり笑って「以前、お世話になりました」。韓国人のBさんとご主人であった。

韓国からこの町に嫁いだBさんは、たどたどしい日本語を駆使しながら、主婦として、住民として、この地に溶け込もうと努めてきた。


日本の地方ならではのコミュニティーの壁は、常に、大きくBさんの前に立ち塞がったに違いない。共通の何かがあれば、もっと日本人と親しくなれるかもしれないと思いついたのが「キムチ」であった。


Bさんは朝も昼も夜もキムチを作り続け、真冬でも早朝3時には家を出て朝市でそれを売り、夏期の週末には市内で開かれる夜市でも売った。やがて、Bさんのキムチは評判を呼び、韓国からの他の輸入品とともに、自宅の一角で販売するようになった。

 

お店にうかがったときのことだ。キムチとニンジン茶を購入することにした。ニンジン茶は、当時、まだ元気だった実家の母に送ろうと思った。美味しい飲み方を尋ねると、Bさんは「おかあさんに送る?」とちょっと驚いた顔をした。

Bさんは何かにとりつかれたかのように、ニンジン茶を数箱、柚子のハチミツ漬けの大瓶などを棚からガサゴソと取り出し、大きな袋に詰め始めた。あっけにとられ、その様子を見ていた私に「はい、これ」と袋をまるごと手渡してくれた。その両手は、小刻みに震えていた。

 

「みんな、これ、おかあさんに、送りなさい」というBさんの両眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。「私も韓国にいる母に、いつまでも元気でいてほしいから」。そんなBさん夫妻との再会であった。

 


〇日

夢を見た。男性一人と女性一人と私の三人で、楽しい会話が弾んでいる。心の底から安心できる会話だったが、音も言葉もない静寂の世界。

 

別れの時間。二人は港から船に乗って、どこかの世界に帰る。港まで見送りに行くと、二人の乗る船は、きれいな星の集まり。漆黒の闇のなかで宝石のように輝いて、まるでイルミネーションのような美しさだった。

 

岸壁に近づき、海のなかをそっとのぞいてみる。海には水はない。底なしの深い闇には、無数の星が塵のように散らばっている。二人は星の船で、星の海に、出ていくのだ。

 

こちらの世界に戻りたくはなかった。再び目を閉じ、夢のなかに入っていこうとするが、夢は次第に、淡いグラデーションとなって消えていく。

 

夢はいつも、どこか切なく、懐かしい感じがする。前世での体験を思い出しているのかもしれない、と思う。戻ってこなくてもいい。そんな気持ちになったが、明るい陽射しに負けて、起きることにした。そして、今日もがんばるぞって、ちっちゃな声でつぶやいた。