言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

きっと、そうなのでしょうね。

〇日

街なかの大型書店。開店して何年もたつのに、入るのは初めて。書店に限らず、大きな施設はどこも苦手。

 

分野ごとに整理された2メートル高ほどの棚が、両面3列、ずーっと奥まで並んでいる。エントランス脇には郷土の出版コーナー。地元の写真集、グルメ系、お土産系、観光系、自然系、偉人系などなど。

 

一般書籍もタウン誌も、表紙を眺めるだけで、京都で、那覇で、福島で、札幌で手にした地方出版とカテゴリーの分類がほとんど同じ。見出しのつけ方や装丁、写真の画角・色味まで、同じスタッフが手掛けたみたいに均質化されて見える。

 

何万、何十万もの他の書籍も、それぞれ違うようで、同質なテイストだ。よく読ませていただく旅行系、散策系のブログのほうが、よほど誠実で、情報の芯があり、嘘のない個性を感じるのは自分だけだろうか。

 

他と違うことを、みんな恐れている。何冊か手に取り、ページをめくる。文章を書けば誤字脱字ばかりのくせに、人さまの誤りばかりを探してしまう。しばし、情報のないところで深呼吸をしたい気持ちになって、店を出る。滞在時間、3分。

 

 

〇日

編集者のA子さんと一献。妹と同じ年だからというわけではないが、自分の中では長年、そんなふうにお付き合いをしてきた。自分のことをきちんと書ける人なのに、旅の話ばかりで時間が過ぎていく。

 

変わり続けていくこと、それが現役。それができなくなったら、退役――。有名な評論家が、そんなことを書いていた。だとしたら、自分たちもとっくに、退役の部類ですね。そんな話も少し。だけど、退役になって初めて見えてきたものも多々あります、という話も少し。

 

深めることすらできずに、進歩、変革などあり得ない。そう信じて、仕事を続けてきた。「そうはいっても、利益。基本の基本じゃないですか」。いつかここに来た銀行の人が、ニヤリと笑って、そんなことをいっていた。儲かっている人が勝ち、金を動かせない人は負け、と顔に書いてあった。「きっと、そうなんでしょうね」としか返せない自分がいた。

 

 

〇日

午前、陶芸家の工房で打ち合わせ。帰りのクルマで、ラジオをつける。子どもの電話相談だった。

 

「いのちは、どうして一つしかないのですか」

「あなたは、いのちが、二つ欲しいのですか」

「はい、二つあったらいいと思います」

「でもね、一つしかないんだなあ」

「うん…」

「一つしかないものだけど、自分だけのものじゃないんだよ」

 

「人って、死んだら、どこに行くのですか」

「どうして、そういうこと考えるようになったの」

「5月におじいちゃんが死にました」

「科学的にいうとね、いのちのあるものは、いつかみんな壊れて、土に還っていくんだよ」

「へえ」

「そして、土の中でも新しいいのちに引き継がれて、そのいのちは、ずっと続いていくんだよ」

「ふーん」

「いまのは科学的な話なんだけど、私はね、あなたが心の中でおじいさんのことを考えていると、おじいさんは生き続けていると思いますよ」

 

このようなやりとりが続いた。先生たちは、すごい。きっと、そうなのでしょうね。というように、正解を押し付けるわけではなく、小さな哲学者たちの「?」にやさしく寄り添って答えている。

 

「なぜ?」を大切にできる人は、素敵な人だ。分からないことをあきらめる大人にはなりたくないと、この番組を聴くと、いつも思う。