言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

我慢の坂道。

〇日

リノベーションの物件、撮影。以前は三脚を立て、ファインダー内で丁寧に垂直をとり、マニュアルに切り替えて露出を補正。レリーズを操って、じっくりと撮影をした。歪曲収差に優れた高価なレンズを使うなど、お金もかかった。しかし、最近のデジタルカメラといえば高感度時のノイズ耐性が上がり、曇天の室内でF11まで絞り込んでも、手持ちで撮れる。垂直、歪曲などはパソコンでささっと補正。4Kとやらは全く分からない。「あとでなんとかなる」気持ちが前提にある、緊張感の薄れた現場で生まれる作品、1秒を何十にも分割できる写真など、写真ではないと自分に言い聞かせる。早い話、ついていけないのだ、もう。

 

厚みのある壁をえぐって彫像や花瓶などを置く窪みのようなスペースのことを「ニッチ【niche】」という。物件は「ニッチ」が上手く配置され、そこに置かれた雑貨や花が、きれいな陰翳を湛えていた。

 

この言葉はまた、生態系のなかで占める位置を表す。「居場所」と言い換えることもできる。どんなに現実をさまよっても、常に、自身の「ニッチ=居場所」を探していこうという腹の括りがあるか。仕事や子育てや家の住みこなし、生き方のあらゆる場面に、どこか通じる気がする。撮影の合間、ぼんやり考えていたこと。

 

 

〇日

Bさんと会った。あれから数日たったが、あの日の「眼差し」が、背中のあたりにまだほんわかと残っている。「視線」には緊張を伴うが、「眼差し」だと安心を感じる。Aさんの書く記事には、ご自身の「眼差し」が潜んでいる。活字の向こうにいる、全ての人の幸福を願う「眼差し」。

 

 

〇日

子どものころからずっと、両親から「我慢が足りない」といわれてきた。確かに、これまでの人生、何についても我慢も努力も避けてきた。好きなことはとことんするが、苦しいことはいやなのだ。

 

痛みについての我慢はきっと、人の数倍は足りない。何度か経験した手術でも、先生や看護師さんから「こんなに痛がる人は初めてです」と文句をいわれ、麻酔が覚めたあとの痛み止めはたくさん打ってもらった。生まれてから7回しか行ったことのない歯医者でも、先生の目を凝視しながら「絶対に痛くしないでください。全身麻酔でもかまいません」と懇願してきた。

 

「我慢」は仏教語でいう「七慢」のひとつで、サンスクリット語でいう「mana(マーナ)」。ちなみに「七慢」とは、

慢=他人よりも自分の方が高い位置に立とうとすること。

過慢=同等のレベルの人に対して、自分の方が上だと思うこと。

慢過慢=自分より優れた人なのに、自分の方が上だと思うこと。

増上慢=悟ってもいないくせに、悟っていると思い込むこと。

卑慢=自分よりずっと優れている人と比べ、少ししか劣っていないと思うこと。

邪慢=自分が間違っているくせに、あくまで自分が正しいと主張すること。

我慢=自分に執着することから起こる驕りの気持ち。

 

「我慢」はもともと「驕り」のような意味があったが、いつからか「我を張る」の意味で使われ、その態度が耐える姿に見えるため、現在のような意味となったという。こうして「七慢」の言葉を並べてみると、自分には「我慢」だけでなく、ほかの六つも当てはまる気がする。

 

 

〇日

仕事が手につかない。まだ日の高いうちに休もうと決めるのは、少し勇気が必要だ。世界中でいちばん怠け者のように思えてくる。誰とも会いたくないし、どこにも行きたくもない。何一つ見たくもなければ、聞きたくもない。そんな日がある。

 

息を切らして登り続けてきた、急峻な坂道。登ったからには、また下らなくてはならないのだろうか。頂がどこだかわからないまま、近頃、下り方ばかりを探している。