言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

陰を描けば。

ロンドン・パリ。2都市に絞って、いつものリュックに着替えと撮影道具を詰め込み、2週間の旅を決行したのは、確か11月のこと。二度目のヨーロッパであった。A社からカレンダーの制作を頼まれ、毎年この時期になると、海外に撮影の足を延ばしていた。潤沢な予算ではなかったが、ギャラは、自分の好きな旅をしてチャラでいいと決めていた。

ロンドンではディケンズの通ったパブなど古いパブを中心に撮影。合間を縫って、日本の旅で知り合い、ロンドン市内に居住していたアイルランド人の友人や大学時代の友人で、英国に永住したA子さん夫妻と食事をしたりした。

パリに移動してからは、カルチェラタンの宿を起点に、毎日、セーヌ河畔に沿って、シテ島からコンコルドを通り、エッフェル塔を往復。メトロは使わず、いつもてくてくと歩いた。

銀杏の落葉が遊歩道に敷き詰められ、道端に軒を連ねる絵や彫刻を売る屋台。鈍色の低い雲は日射を頑なに遮って、河も街もモノトーン一色に見える。とりわけ魅せられたのは、古い建物と建物の間にある、細く狭い石畳の通り。

街全体が暮色に覆われる時間が好きだった。街灯に灯された通りは、刻一刻、陰翳を色濃くする。家路を急ぐ人々の表情にも翳りが宿り、個々の人々の暮らしぶりを想像するのである。

街も通りも闇に包まれた頃、宿に戻る。長辺1メートルほどの幅しかない、名ばかりのフロントカウンターの陰で、日がな編み物をするオーナーでもある72歳のおばあさんと、その日のあれこれを話したり、彼女の昔話を聴いたり。その話も、美しい天然色では決してなく、黒白の映画のような陰を孕んでいた。

 


ある夜。おばあさんが「陰」の話をしてくれた。私が「この街は、古いことを誇っているかのようだ」というようなことをいって、おばあさんが「古さではない。パリは『陰』を大切にしているのよ」と語ってくれたのだった。


影は「shadow 」、陰は「melancholy(沈思, 物悲しさ, 哀愁)」。「melancholy」を慈しむ街なんて粋な話だ。パリは、おばあさんのこの一言で、さらに美しい陰翳を増して見えてきた。

 


旅から帰ってすぐに、小さな絵画教室に通い、デッサンを学んだ。初老のA夫先生から繰り返して教わったのが「陰を描けばかたちができる」ことであった。


モノトーンのなかにも、数えきれない濃淡のグレーゾーンあって、それらを丹念に描いていけばやがて輪郭が動き出す。文章や写真、建築にも、同じようなことがいえる。中心、主題を強く書こうとするのではなく、輪郭から表現するようにしていけば、おのずと芯のようなものができあがる。パリの安宿のおばあさんがいっていたことを、デッサンで検証できたのは、思いもかけぬ収穫であった。


あの旅から、いくつもの歳月が過ぎた。この間を思い返すと、天国に旅立った大切な人は幾人もいて、いまだ心の中で疼く痛みも歓びもたくさんあるにはある。が、突然心変わりをしたように、思いもしない方向に砕け散り、泡のように消え去った記憶も少なくなかったはず。残されたものの多くは、光というよりは、むしろ「陰」が多くを占めるだろう。


冬という季節の到来が、とりわけ、自分のなかの疼きを増幅させていく。ヤマイダレのなかに「冬」と書くには、それなりの所以か。

歓びや陰、疼きとやらを素直に書いて、自らの生の輪郭を描き出せるような日が、この自分にも来るのだろうか。奥底にしぶとく生き残った「melancholy」が、訝しんで、そう問うている。