ヨーロッパでいちばん好きな街を、と問われれば
迷いなくリスボンと答える。
黒い髪と黒い瞳、そして日本人とほぼ同じくらい
さほど背丈も高くないこの国の人々は、
語り口も静かで、性格も穏やか。
首都といってもその街なかは、ヨーロッパのあらゆる首都のなかでも
どこまでも静寂で、路地裏だけでなく
都心の商店街でも、落ち着いた大人の風情を湛えている。
中心部の広場から、少し街はずれに向かい
細い石畳の路地を何丁か進んだところに目当ての宿があった。
チェックインを済ませ、ロビーによいしょとリュックを降ろすと
アメリカ人の女性2人が話しかけてきた。
白人と黒人。
南欧を中心に旅行しているのだという。
彼女たちの部屋に招待を受ける。
部屋では互いに、あれやこれやと旅の情報の交換。
せっかくのリスボンなのだから、
一緒にファドでも聴きに行きましょう、との誘いを受けることにした。
その小さな店では、ファドの歌い手(Fadista )が
客のすぐ目の前で歌っている。
石の壁に並んだ朱色のランプがほのかに闇を照らし、
低い天井と冷たい灰色の床を
ぐるりと一周して、乾いた歌声が両耳に響いてくる。
Fadista という言葉には「やくざ、ならず者、売春婦」の意味がある。
ギターラ=Guitarraという6コース12弦のギターと
ヴィオラ・クラシカ=viola Classicaの伴奏は
伸び縮みの多い独特のリズムをねっとりと奏でながら
絶妙な節回しと間の取り方で
詞を歌いあげるFadista をそばで支えている。
ポルトガル語は
アメリカ人にとっても、日本人にとっても異国の言葉である。
しかし、かすれた吐息を幾重に重ね上げるように歌い上げる
ファドの数々は、異国にいる旅人のすさんだ心を
「まあ、いいじゃないの」といわんばかりに慰めてもくれた。
それが大人というもの──と、Fadista の目が語っていた。
ワインを飲み過ぎたのかもしれない。
どうやって店を出て、
その後、どうやって彼女たちと別れたのかは、記憶にない。