言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

横浜、あのとき

学生時代の4年間を過ごした街。
大学4年になってからは、親からの仕送りは遠慮し、
それまで週3日のアルバイトを週に6日に変更した。


最後のアルバイト先は山下埠頭だった。
山下公園ある氷川丸の裏手にある埠頭の倉庫で
輸出用のレントゲンフィルムを船に乗せる、荷担ぎの仕事だ。
仕事が終わると
バス代を節約し、山手を通って、平楽のアパートまで帰った。
途中、トンネルを抜けたところにある豆腐屋さんで
揚げたての厚揚げを一つだけ買うのが日課であった。

汗だくの仕事だったが、銭湯に行くのは週末だけと決めていた。
夏も冬も、近所の大ゴミの日に
拾ってきたベビーバスが風呂代わり。
狭い台所にそれを置き、身を屈めながらせっけんで全身を洗い
蛇口につないだホースの水で洗い流す。
食事は、例の厚揚げ、納豆、玉子、
ご飯と味噌汁さえあれば、ほかに何もいらなかった。

たまの休日は、歩いて20分ほどで行ける港の見える丘公園
山下公園で海を眺めて過ごした。
その年の大晦日港の見える丘公園で、
係留中の船が一斉に汽笛を鳴らす、カウントダウンを聴いた。


週のうち5日は、入れ替わり立ち替わり友人たちが遊びに来た。
安い焼酎を飲みながら、
何時間も話して、笑って、あっという間に時間は過ぎていった。


答えのないものが夢というのなら
私たちは、いつだって夢ばかり語っていた。


埠頭の仕事はきつかった。
10代から70代まで、いわゆる社会のなかで、
ちょっとあぶれたような人ばかり。
おじさんたちは親方の目を盗んでは、実に上手にさぼっていた。
若い私たちは、その分まで働いた。


余計に働く私たちに、時折、おじさんたちは外国タバコをくれたり、
港湾食堂で安い定食をご馳走してくれたりもした。
病んで休む人がいれば心を痛め、その人の家まで見舞いにも行った。


誰かが金がないといえば、仲間で千円ずつ出し合って、
返してくれるのはいつだっていいと、そんな金の貸し借りも当然のことだった。


65歳のナカさんは「臆病者だけが成功するんだ」が口癖だった。昼休み、こっそり隠れて焼酎をあおっては「人間ってなあ、つつましい暮らしと仁義が大事なんだ」と何度も同じことを教えてくれた。


そんな人たちとの、そんな日々が、心地よかった。
いまの暮らしと当時の暮らし。
どちらが幸せかと問われれば、6:4でいまと答えるが
どっちが「ゆたか」だったかと問われれば、迷わず「あのとき」と答える。