言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

祈る人

〇日

A市でセミナー。

終了後、一組のご夫妻に声をかけられた。
奥様がにっこり笑って「以前、お世話になりました」。
韓国人のBさんとご主人であった。

縁あって、韓国からこの町に嫁いだBさんは
たどたどしい日本語を駆使しながら一生懸命に

主婦として、住民として、この地に溶け込もうと努めてきた。


言葉も習慣も異なる日本の地方のコミュニティーの壁は

常に大きくBさんの前に立ち塞がったに違いない。


共通の何かがあれば、もっと日本人と親しくなれるかもしれないと
思いついたのが「キムチ」であった。


食べ物、しかも日本でも馴染みのあるキムチを通してなら、
互いの理解もすすむのではないかと考えたBさんは
朝も昼も夜もキムチを作り続け、
真冬でも早朝3時には家を出て朝市でそれを売り、

夏期の週末には市内で開かれる夜市でも売った。


やがて自宅の一角でも販売。
口コミでその美味しさは広まり、
その後、テレビで紹介されるようにまでなった。

お店にうかがったときのことだ。
話を終え、キムチとニンジン茶を購入することにした。
ニンジン茶は母に送ろうと思った。
美味しい飲み方を尋ねると、
Bさんは「おかあさんに送る?」と
ちょっと驚いた顔をした。

Bさんは、何かにとりつかれたかのように

ニンジン茶を数箱、柚子のハチミツ漬けの大瓶などを
棚からガサゴソと取り出し、大きな袋に詰め始めた。
驚いてその様子を見ていた私に、袋をまるごと手渡してくれた。
「みんな、おかあさんに、送りなさい」
というBさんの両眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 


〇日

深夜2時に目が覚める。気になる仕事があった。

短い時間だったが、ぐっすり眠ったので

やるか、と心のなかでつぶやき、着替えて仕事場に入る。

 

アタマのなかが混乱しはじめたこんなときは

懸案事項をやれ紙で作ったメモ帳に書き出してみる。

1.2.3.…と番号をつけ、優先順位を整理する。

5分もたたないうちに、23番までメモが並ぶ。

 

連絡をしなければならない人には、すぐにメールを送る。

3通。

これだけで、3つのメモに赤線が引かれ、クリア。

パソコン上で、整理できるものは整理。

これで2つクリア。

あとは、先方とのやり取りが必要なものばかり。

4時前、もう一度、布団に入る。

 

夢を見た。

男性一人と女性一人と私の3人で、楽しい会話。

心の底から安心できる会話だったが、全ては沈黙のままの会話であった。

声を出さずとも、気持ちは通じていた。

 

お別れの時間。

二人は港から船に乗って、どこかに帰るらしい。

港まで見送りに行くと、

二人の乗る船は、きれいな星でできていた。

闇のなかで宝石のように輝いて、

まるでイルミネーションのような美しさだ。

 

岸壁に近づき、海のなかをのぞいてみる。

海には水はなく、

底なしの深い闇に、無数の星が塵のように散らばっていた。

二人は星の船で、星の海に出ていくのだった。

 

こっちの世界には戻りたくはなかった。

再び目を閉じ、夢のなかに入っていこうとするが、

夢は次第に朧となって、淡いグラデーションとなって消えていく。

どこか切なく、懐かしい、幻想の世界。

遠い遠い、記憶の世界かもしれない。

もう現実には戻ってこなくてもいい。

そんな気持ちにもなったが、

部屋に射し込む朝日の強さに負けて、起きることにする。

 

 

〇日

午前、八幡宮

疲れていたが、気持ちのいい場所に行くのは悪くない。

ここは、鳥居をくぐるだけで「気」が違う。

結界は、歴然として在る。

 

祈る人の姿を見るのが好きだ。

自分のためではなく、誰かのために祈る人の姿は

とてもきれいに見える。

 

鳥居をあとにする。

こっちの世界での日常が、また始まる。

 

 

〇日

あちこちから水の音。
軒先にへばりついたツララが解けて、地面にぽたぽたと水滴が落ちる音。
水嵩が増した近くの小川の流音。
道端の汚れた氷や残雪の下にも、水がちろちろ。


春の音は、水の音である。


3月の上旬を「光の春」、下旬は「温度の春」というそうだ。
光の量が日に日に増して、
今度は、気温の高さを肌で感じるようになり、
街をまるごと覆っていた雪は、すごい勢いでやせ細っていく。