言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

マコちゃんの眼

私が生まれた貧相な鉄道官舎も、4歳のときに父が建てた小さな家も
そこには2階というものがなく、
たとえ一部屋でも、2階のある家に住むのがずっと夢だった。


だから、祖父母と叔父一家、叔母のマコちゃんが
2階のある長屋に引っ越したのは、うれしい出来事だった。


小学3年生頃のことだ。
遊びに行くたび、階段を昇って2階という
未知なる場所に行けるのは
原っぱなんかで遊ぶことより、はるかに探検心を掻き立てられた。

自宅から距離にして4キロほどだったその長屋に、
父に連れられ、よく遊びに行った。
高学年になってからは、自転車に乗って、一人でも行けるようになった。


2階といっても2帖1間と3帖1間しかなく、
3帖を叔父の一家、もう片方をマコちゃんが使っていた。
叔母といっても、マコちゃんは
父のいちばん下の妹で、10歳しか離れていなかった。


マコちゃんの左眼は、義眼であった。
樺太生まれの父の一家は、終戦直後、ソ連軍が侵攻してくるなかを
命からがら北海道に逃げてきた(父は1948年に帰国)。


マコちゃんはまだ1歳になるかならないかの赤ん坊で
北海道に向かう避難の船に乗る直前、
ソ連の狙撃兵が放った銃の弾にあたり、失明した。
流れ弾は赤ん坊の小さな頭を砕くことはなかったが、
左眼を見事にかすって、生命と引き換えに視力を完全に奪ったのである。


長屋に遊びに行くと、当時中学生だったマコちゃんは、
部屋に閉じ籠もって、本ばかり読んでいた。
私が来たことがわかると
襖を開けて「ダイちゃん、来たのかい」と微笑んで
部屋のなかに招き入れ、読んでいる最中の本の話をよくしてくれた。


中学を出て就職をしても、やがて結婚をしても
マコちゃんは、やっぱり、本ばかり読んでいた。
大工のじいちゃんが作った質素な本棚には、
ロシアの小説も英国の小説も、日本の小説もたくさんあって、
私が高校になって本を読むようになってからは、
会うたびに「いま、何読んでる?」と尋ねてくれた。


読んだ本の感想を偉そうに話すと「へえ、そーなの」と受け止め「片眼で読む本は、肩が凝るんだよ」と笑った。
右眼の光とは対照的に、左眼は確かに違う光だった。



そのマコちゃんは、父と同じく、
もう少しで60歳、という若さで死んでしまった。
ガンと闘った2年間は
抗ガン剤の副作用で髪の毛が抜け落ち、かわいい毛糸の帽子をかぶった。
それでも私が帰省すると、家まで駆けつけてくれた。
互いにもう、本の話はしなかった。


モノを書くなんて、自分を認めてほしいとわめき散らすようなもの。

 

こんなふうに、誰かがテレビでしゃべっていた。
マコちゃんは、内に向かって自分を問い続け、
ひたすらに、活字を自身のなかに埋め込んだ。



強さにふさわしいたたずまいとは、
深刻さを装った振る舞いではなく
何ごとにも静かに耐えることで醸される、微笑だけかもしれない。

マコちゃんの笑顔を思い出すたび、そんなふうに思う。


もうすぐ、マコちゃんの命日。
天国では、両眼で、ちゃんと見えてますように──と今年も祈る。